カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

尼子晴久の没年について

 本日、2月12日は尼子晴久の誕生日だとされています。そのようなめでたい日に投稿するのが「没年について」というのはいささか不謹慎な気もしないではありませんが、いまだに間違った没年が流布される事例もある以上、やるべきだと思った次第です。

 とはいえ、晴久の没年に関しては『島根県史 八』において永禄三年で間違いないと判明しているんですよね。にも関わらず、まだまだ晴久の没年が永禄五年とする説があるのはどうしてなのか、改めてここで情報を整理してみましょう。

 まず、『島根県史』に書かれている内容をまとめてみます。
 晴久の没年を永禄三年としている資料が以下になります。

  • 佐々木家系伝書
  • 佐々木京極尼子正統霊
  • 尼子家什寶目録
  • 「萩閥」佐々木舎人條
  • 尼子倫久自筆書置


 また、永禄四年とする資料に

 があります。とはいえ1点だけなので、恐らく誤字でしょう。


 では、永禄五年とするものにはどのようなものがあるかというと

  • 雲陽軍実記
  • 出雲私史

 の4点が該当します。

 ちなみに命日は「佐々木系図」の「永禄五年十月十日」を除き、すべて十二月二十四日なので命日は12月24日で確定だと思われます。

 また、さらに晴久が晩年に署名した書類を確認すれば、「永禄三年六月二十八日鞍懸豊勝定香料寄進状に晴久袖判證状」というものが最後になります。
 それ以降の永禄四年からは義久の署名になります。例)雲樹寺課役免状(永禄四年六月二十九日)、安国寺領安堵状(永禄四年九月十五日)、鰐淵寺領安堵状(永禄四年九月十九日)
 上記に挙げたものはいずれも、晴久が存命であれば確実に晴久の署名が必要な書類になります。義久は晴久生前の頃からいくつかの書類に署名する例もありますが(永禄二年四月二十八日義久の日御碕社領安堵状など)、それは晴久の代わりに書いたものや父子で別通証状を同日付で出したものに過ぎないので、晴久の生存を否定する史料とはならないのです。
 このことからも永禄三年6月28日から永禄四年6月29日までの間に晴久が亡くなっているのは確実であるということができます。つまり、晴久は永禄三(1560)年12月24日に亡くなったとみて良いでしょう。

 以上の内容はほぼ『島根県史 八』の要約なので、さらに一歩踏み込んでみましょうか。
 では、永禄五年を唱える資料についてみていきたいと思います。
 とはいえ、「佐々木系図」はそもそも命日を唯一間違えている資料なので信憑性はかなり低いとみて良いでしょう。
 それでは諸軍記物はどうなのか。
 まず、『雲陽軍実記』で晴久の死の場面はどのように描写されているかをみていきましょう。
 晴久が亡くなる場面は「元就元春於厳島鰐淵山調伏法被修事」という章に書かれています。
 まず、場面は永禄五年に本城常光が離反したところから始まります。本城常光が毛利側に暗殺されて大勢の国人が尼子方に寝返ることになったのは怨霊のせいであると吉川元春は主張します。そして、厳島の僧に怨霊を調伏するように頼みます。僧は晴久の藁人形を作り、7日間断食して祈念します。すると7日目に人形の首が落ちて転がっているので、大願成就のしるしだとして喜び、元春にこのことを伝えます。
 元就もまた、国人の心変わりは本城の怨念とみなし、本城の恨みを静め、且つ晴久の一命をもらい受けるよう祈祷を鰐淵寺に頼み込みます。9日間の祈祷を受けた晴久は朝、手水を使おうとしたところ、急に体調を崩し、そのまま帰らぬ人となったというような内容です。
 ツッコミどころは多々あるのですが、まず本城常光が離反したことを怨霊のせいにするという時点で片腹痛いですね。尼子からわざわざ寝返った本城を暗殺するなどという、卑劣な手段を使うような毛利から国人が離反したいと思うのは自然なことでしょう。何を怨霊のせいにしてるんだ、アホか。
 しかも、晴久の藁人形とか、いくら呪いや霊が今よりずっと信じられていたであろう戦国時代の話とはいえ、子供騙しにも程があるでしょう。たった9日間祈った程度で怨敵が死んでくれるなら、誰でも加持祈祷にかまけて戦などしませんよ、馬鹿馬鹿しい。
 そして、亡くなった時期も本城常光の離反と死、さらには大勢の国人が寝返った後に持ってきてるのがいやらしい。『雲陽軍実記』の作者である河本隆政は、尼子の直臣「富田衆」の出です。当主が亡くなるという衝撃的出来事を直臣である人物が忘れるはずがないので、恐らく捏造しようとしたのでしょう。これをすることで、本城常光離反を晴久の所為にできますからね。『雲陽軍実記』には晴久憎しの記述が多々みられるので、没年の操作もその一例だと思われます。

 では、次に『陰徳太平記』はどうかみてみましょう。
 晴久は永禄五年12月23日の夜、急に体調を崩してしまいます。義久や倫久、秀久、御台などは大いに驚いて、医者や祈祷師を呼びますが、回復することなく、24日の朝に遂に息絶えます。
 おかしな点としては御台、つまり晴久の妻が何故かいることですね。晴久の妻である国久の娘は天文二十二年(1553年)に亡くなっているはずです。いたらおかしいんですよね。
 
 さらに『出雲私史』はというと、永禄五年十月に元就が洗合に本営を移し、尼子方が富田にこもっている中で、毛利に与するものが増え、兵力は衰弱、出雲の半国を有するのみになり、その場面で、唐突に晴久は病で亡くなります。
 晴久存命中に第二次月山富田城戦になっているわけですが、色々省かれ過ぎてどこから突っ込めばいいかわかりません。少なくとも、そんなに一気に勢力拡大できるほど世の中甘くはないし、永禄五年に洗合に陣して以来、兵力が衰弱していく中でずっと尼子が粘り続けている方が逆にすごい気がします。

 総じて言えることとしては、いずれもツッコミどころ満載な記述ということですね。このようなそれぞれバラバラな歴史を主張する軍記物が、晴久の没年を永禄五年で統一しているという事実のみで、晴久の没年が永禄五年であると主張されていたというのが、ことの顛末でしょう。尼子の歴史は長らく軍記物に頼らざるを得なかったので、その軍記物が永禄五年だとするならそうなのだろうと、そのまま信じ込んでしまっていたのでしょう。『島根県史』が一次資料をもとに分析したおかげで、それは誤りであると分かったのは画期的な発見であったと言えます。
 恐ろしいのは、永禄五年説を唱える人がいまだに存在することですが、一次資料を分析できない時代ならともかく、詳細に分析した研究が50年以上前に存在している現代でも、まだ存在するのはどういうことなのでしょうか。軍記物の内容を深く分析した人がいないから?軍記物の内容しか知らないで歴史書を書いているから?色々考えられますが、少なくとも『島根県史』を読んでいればそのような発想にはならないと思うのですが…。私にはわかりません。

 ともかく、私としては少しでも晴久について正しい見識が広まってくれることを願うばかりです。