カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

吉田家・福山家 情報まとめ

 吉田家

  • 六郎左衛門清秀
  • 四郎貞秀
  • 筑後伯耆の守護。1476年頃、中井対馬守に宇賀荘を売却した(清水寺文書)。播磨で討ち死に。
  • 左京亮筑後守の弟であるが、祟り(感染症か?)によって子息が亡くなった筑後守の養子となる。松山において三村家親に討たれる。
  • 源四郎ー1554年生誕。左京亮の長男。第二次月山富田城戦では大江の城に200人ほどの家来を引き連れこもっていたが、三村家親らに攻められ富田城に落ち延び、いまだ幼い身の上であることも相まって、叔父である八郎左衛門・三郎左衛門によって後藤源次兵衛という家臣をつけられ降伏させられた。その後は杉原盛重の娘を娶り、肥前守元重として尾高城に拠り吉田家の家名を残した。
  • 八郎左衛門義金ー下記参照

     

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  • 三郎左衛門ー1553年に晴久に同行、1563年の白鹿城の救援には八郎左衛門とともに従軍、毛利元就の富田城総攻撃の際は義久につき御子守口を防衛。杵築同行者にも名があり、諸国を放浪した後は兄とともに京都に向かい勝久を盛り立てた。再興戦が始まると、美作へ交渉に行き味方を増やすことに成功、1570年の布部山の戦いでは兄とともに水谷口を防衛。八郎左衛門の死後の1578年上月城籠城まで尼子と運命をともにし、1578年5月14日に果てた。
  • 四郎次郎ー八郎左衛門の子。八郎左衛門とともに殺害される。
  • 兵庫助竹生島奉加帳 出雲衆に名あり
  • 忠左衛門ー勝久に内応し山吹城を焼き払おうとするも、謀が漏れたことにより失敗、出雲へ逃げ帰った。
  • 孫左衛門ー再興時銀山城におり、尼子方に味方した。毛利に包囲されるも、山中、立原らがすぐさま救援を出し、その際は毛利方に勝利したとされる。
 尼子分限帳には吉田姓の者はいない。尼子家旧記には八郎左衛門と四郎次郎の名のみ。
 

 福山家

  • 肥後守綱信ー下記参照

     

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  • 源五郎肥後守の子。安田要害山(長台寺城)の城主となったが、永禄九(1566)年に落城。なお、彼を祀った社が長台寺本堂の後ろにあり、福山権現として今も祀られている。
  • 弥次郎ー尼子家旧記に「伯州より芸州にて討果」とあり。杵築同行者の一人。陰徳太平記には1569年頃から登場し始める
  • 次郎左衛門尉玆正尼子家旧記に「弥次郎の叔父、同前死」とあり杵築同行者の一人。毛利元就の富田城総攻撃の際は塩谷口を防衛。1569年の下知に弥次郎とともに従い再興運動に参加した。1570年には河副右京亮らとともに多久和城に立て籠っていたが、毛利に包囲されそうになると小屋に火をつけ逃げおおせた。布武山の合戦では中山口を防衛。続いて平田の手埼城の救援にも向かった。1571年には伯耆の八橋城に横光権丞とともに籠っていた。
  • 蔵丞(内蔵丞)尼子家旧記に「次郎左衛門の弟」とあり杵築同行者の一人。再興時、上月城に弥次郎とともに籠った
  • 名三郎次郎ー尼子家旧記に名あり。
  • 藤左衛門尉ー尼子家旧記に名あり。
  • 藤三郎肥後守の養子(陰徳太平記

 竹生島奉加帳、尼子分限帳には福山姓のものはいない。

 元々吉田家の家来であったが、晴久の代に直臣として取り立てられたか。福山肥後守が吉田源四郎の後見であったり、左京亮の仇である三村家親を討とうとするなど、肥後守と吉田家の関係は親密であったことが諸軍記から伺える。次郎左衛門や弥次郎は再興戦でも吉田三郎左衛門や八郎左衛門と特に関わっている様子は見られないが、尼子家の忠誠心は非常に強かったのではないかと数々の行動から推測できる。