カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

『新雲陽軍実記』内の中井家

 『尼子物語』はやったので、次は『雲陽軍実記』の中の中井家について。

 

 まず、中井という苗字の人物を列挙していくと

・中井駿河守久包

・中井平蔵(平三兵衛)

・中井兵衛*

・中井助右衛門

・中井善左衛門

・中井與次郎

以上6名が登場。(平蔵と平三兵衛と2種類出てきたけど、これは同一と判断)

 ほぼ『尼子物語』と一緒だけど、唯一中井兵衛という人物だけ違う。この人物が登場したのは、1553年の小笠原長雄の救援の時。晴久に同行した者の中に、綱家と久家と兵衛の3人が並んで書かれてる。

 誰こいつ?また新たな人物出てきちゃったよ…。四郎左衛門とか次郎右衛門とは違うよな。誰だろ…。この人物については要研究かな。

 

 あと、『尼子物語』との違いで一番理解できないのが、義久たちの杵築までの同行に中井與次郎はいるのに綱家と久家と助右衛門が消されていること。

 そもそも人数が全然違う。『尼子物語』だと69人とされていたのに、『新雲陽軍実記』では85人になってる。それでいて綱家も久家も助右衛門も含まれてない!何それ!意味わからん!!

 

 ちょっともう心が折れそう。雲陽軍実記と陰徳太平記の比較研究した人とかいないかな。その論文とかあるなら読みたい…。何を信用したらいいか、わからなくなってきたもん…。信憑性なら陰徳太平記のが上だと思ってたけど、私にはもう何がなんだかわからないよ…。

『尼子物語』内の中井家

  『尼子物語』内で書かれた中井家関連のことで、気になることと考察とか。

 

 まず、気になったのは中井久家こと中井平三兵衛の名前の表記。『尼子裏面史』や『尼子氏関連武将事典』では、平“三”兵衛と書かれていたのに対し、『尼子物語』ではそう書かれてたのは一度だけで、他は平“蔵”兵衛と表記されていた。ちなみに『新雲陽軍実記』では平蔵呼びが多い。

 平蔵呼びされると、別人感が強いのであまり好きではないけど、慣れればまぁそんな表記もあるよねって感じだし、神経質になるところではないね。

 

 それより重要なのは登場した中井という名前の人物。

・中井駿河守久包

・中井平蔵兵衛久家

・中井助右衛門

・中井与次郎

・中井善左衛門

 上の二人はもう説明不要だと思うので、そこはスルーで。

 一番気になるのは中井助右衛門。助右衛門というと、綱家が駿河守に叙任される以前の通称なんだよね。それを引き継いでいる人物というと、通常嫡男か嫡孫かが考えられる。でも、綱家の嫡男が久家なのは確定事項だから、あり得るとしたら嫡孫。

 そもそも彼が出てくるのが、義久の杵築までついていった69人の一人としてと、再興に応じて忠山に馳せ参じた時の2回。両方久家とともに登場してるし、久家の子どもの可能性が高いかな。

  でもね、尼子家旧家を見ると助右衛門という人物は出てこないんだ。代わりに出てくるのが、中井四郎左衛門尉とその子である中井藤五郎と次郎右衛門尉。

 

 もう訳がわからん。そもそも与次郎と善左衛門の二人は、綱家・久家と血縁なのかどうかもわからん。与次郎は義久の杵築までに同行した69人の一人なんだけど、何故か綱家・久家・助右衛門とは離れて書かれてるんだよね。同じ家系なら普通はまとめて書くだろうに…。

 善左衛門は横道兵庫介の姪婿で、毛利側に寝返って、横道兵庫介を討った人物として書かれているだけ。情報が少なすぎる。

 

 なので、もうちょい調べる必要がありそう。雲陽軍実記もそうだし、翻訳ではなく『陰徳太平記』原本もね。マイナー武将・武家といえど、奥は深い。

『尼子物語』と『新雲陽軍実記』感想

 しっかりとではないけれども、一応一通りは2冊とも読めた。

 『尼子物語』こと陰徳太平記は、尼子の歴史を最も忠実に表現した本だと言われてるだけあって、わかりやすい。とはいえ、毛利側からの視点なので、多少は警戒すべきなのだろうけど…。

 

 『新雲陽軍実記』はとにかく読みづらい!時系列が結構バラバラなのが気になるし、歴史の大筋が雑な割に、やたらと逸話にページを割いてるから、余計読んでてイライラしてくる。

 何より違和感があるのが、人名や土地名に同音異字が多用されていること。今より500年近く昔の話だし、土地名であれば漢字が変化したという風に受け取ることもできるけど、そうではないよね。正しい人名ならば、公文書を見れば明らかにできるし、地名だって、それで判断できるだろうし。

 そうやって考えると、雲陽軍実記は著者が聞いた噂話をひたすら書き連ねていっただけの本ではないかと思えてくる。耳で聞いたことを書くだけだと、漢字がわからないから、必然的に土地名や人名に使う漢字が本来のものと違ってくる。だから、あれほど同音異字が多いのではないかと思った。

 あと、これは晴久好きな私の個人的印象だけど、やたら晴久のことを悪く言う逸話を持ち出してくるよね。特に本城常光ら辺は、かなり筆が乗ってる気がする…。やっぱり作者の河本隆政って、吉田郡山の戦いで、怪我をして出世の道を絶たれたから、晴久のことをかなり恨んでたんじゃないかな?あと、常光のことも若干憎んでるような印象を受ける。

 その反面、義久のことは結構印象良く書いてるよね。たぶん晴久には若干冷遇されて、義久には気にかけてもらえたとか、そんな裏話とかでもあったんじゃないかな。それぐらい差が酷い。

 晴久はどちらかというと、山中氏や吾郷氏のように、先祖が優れた働きをしたら、その子孫に対しても、優遇したりして感謝を示す方だから、河本隆政って相当晴久に嫌われてたんじゃないの?って思うわ。

 実際、河本家として一括りにしていいかはわからないけど、河本隆任は富田衆における数少ない投降者の一人だからね。そうすると、その親とも考えられる河本隆政も、尼子を見限った裏切り者だということができるしね。正直、気に食わん。こんなやつが書いた文章が尼子の正史だなんて思いたくない。

 尼子に仕えた家臣だとしても、書かれたことが正確だといえる証拠なんてどこにもないんだよね。太田牛一レベルでも無ければ、資料としては不十分だよ。長谷川博史先生みたく、一次資料からその信憑性を見極める必要があるね。

雲陽軍実記と陰徳太平記とか、尼子が好きな理由とか

 とうとう図書館でハーベスト出版の『新雲陽軍実記』と『尼子物語』を借りてきた。

 『尼子物語』は陰徳太平記の尼子氏関連の部分だけを抜き出したもので、『新雲陽軍実記』は言わずもがな、雲陽軍実記の現代語訳。

 尼子家を知る上でなくてはならない2冊ではあるんだけど、私はずっと読みたくないと思ってたんだよね。まぁ、それというのも、ネットの掲示板で、晴久好きは陰徳太平記も雲陽軍実記も地雷というのを見てしまったから。

 やっぱり地雷を好き好んで踏みたいやつなんていないよね。私も今までそう思ってたからこそ、避けてた。

 でもねぇ…晴久とその家臣団について調べたいなら、もう四の五の言ってられないのよ。それに、尼子家の関連資料読んでたら、晴久が悪く言われるのに慣れかけてる自分もいるしね。図書館に入れてあるのも、また運命だと思い、借りてきたさ。

 最終的には、広瀬町歴史シリーズ全巻セットを買うつもりではいるけど、今のところは、まぁこれで…。お金が無いのとやることがいっぱいあって、趣味ばっかり構ってられないんだ。

 

 あと、私は中井家中井家ばっかり言ってるけど、他の人たちもちゃんと好き。立原幸隆・大西十兵衛・本田家吉の3人はよく一緒に行動してるし、仲良かったのかなとか気になる。多胡辰敬は逸話も家訓もカッコよくて大好き。本城常光も強いし、戦国大戦でカッコ可愛くて好きだった。大身でありながら、最後まで尼子家に忠誠を誓ってた川副久盛も好き。地味だけど、田中三郎もいいよね。

 基本、私は尼子家に忠誠を誓い続けてた忠臣が大好きなんだ。

 戦国といえば、自分のために主君を売るような者もいるし、裏切り行為が蔓延してた時代。だからこそ、揺るぎない忠義を持ってた人達に憧れるし、惹かれる。

 尼子家の忠臣といえば、山中鹿介ばかりが注目されるけど、他にも忠臣はいたんだぞって叫びたい。それに、忠誠心あつい武将が数多くいたってことは、逆説的に考えると、それだけその主君が魅力的であるということだ。つまり、尼子晴久は愚将ではなく、多くの武将が命をかけてもいいと思えるほど、魅力的な存在だったのではないかと考えられるわけだよ!だからこそ!私は!晴久とその家臣たちがどれほど強い絆で結ばれていたかを知りたいんだ!!

 義久や勝久についても調べるべきなんだろうけど、この二人に関しては、若くして祭り上げられたから、家臣たちの忠誠は先代のものが多分に含まれるのではと思ってしまうんだよね。要するに、あまり興味が湧かない。まぁ、私は自分の好きなものにしか興味がない人間なので、仕方がないんだ。

 尼子再興の際の家臣らの忠誠心を、経久のおかげにしたがる人もいるけど、それはさすがに無理があると思う。経久の威光がいくらあったとしても、三十年近く空いてたら世代が変わってくるでしょ。少なくとも再興の時代は、晴久の威光もしくは尼子家そのものの威光に違いないと思う。

 考えれば考えるほど、晴久って優秀な人物だったんじゃって思えてくる。そうなるとやっぱり証明したくなるのよ。何か証拠を提示しないと、人の心は動かせないからね。

 だからこそ、私は知りたいって思うし、調べ尽くしたいわけだよ。晴久と忠臣たちについて、ね。

東谷山と白鳥塚古墳

 今日は名古屋の最高峰、東谷山に行ってきたよ!あと、帰り道に少し白鳥塚古墳も寄ってきた。

 この山、何よりも嬉しいのが、高蔵寺駅や中水野駅から行ける場所だということ。だから、バスの時間とか気にせず、気楽に行くことができるよ。

 

 今回は『新 こんなに楽しい愛知の130山』を参考にして、そこに載ってる通りのルートで行ってきたよ。

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 最初は中水野駅で下車。駅にはウォーキングマップもあるので、それを参考にするのもいいかも。

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 駅を出たらひたすら北西へ向かう。途中に尾張戸神社という石碑を発見。でも、周りは完全に民家。これは頂上にある尾張戸神社が場所を移動したとか、そういうことかな?

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 まだまだ北西の方へ進むよ。常夜灯が見えたら、あとは登山口までひたすらまっすぐ。常夜灯の隣には「保食大神」という石碑がある。どういう神なんだろ…。

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 直進の果てに、見えてきたのが登山道!鳥居が目印だよ。

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 登山道はひたすら階段。結構整備されてるので歩きやすい。

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 途中、石段が急になったり、右に曲がったりするけど、ひたすら階段なのは変わらず。

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 頂上へ行く前に、中社古墳が見えてくるので、こっちにも寄ろう。なんと、この古墳、4世紀頃に作られた前方後円墳なのだそう。周りには石を積み上げたものがたくさん見受けられるよ。

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 ここまで来たら頂上まではあとちょっと。相変わらず石段が続くけど、頑張って登ろう。

 そして、石段の果てに見えるは、頂上である、尾張戸神社だ!

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 かなりひらけた場所で、休憩できる机や椅子、バイオトイレがあるよ。景色も最高!

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 展望台もあるよ。そこからの景色もまたいいんだ。

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 もちろん、神社へのお参りもしようね。古墳がそのまま神社になってるらしく、ぐるっと一周まわると、形がわかって楽しいよ。

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 尾張戸神社から、ちょっと行ったところに、3号墳を利用した石組みがあるので、こちらも寄るといいかも。苔むした石って歴史を感じるから、結構好き。f:id:Camonambam:20190606195357j:image
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 頂上にも来たし、ここからは下山。来た道とは別のルートで行くよ。石段ではなく、木の階段を降りていく。山道もキツイけど、階段も単調な道が続くから、飽きてくるのがつらいね。

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 でも、このルート、途中で南社古墳があるんだ。頂上にも行けるし、形を確かめるように、歩くことができるよ。

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 南社古墳を過ぎると、27号墳の石を利用した石組みの看板があるよ。この辺りには古墳がいっぱいあったんだね。

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 そして、しばらく歩けば下山完了。近くには東谷山フルーツパークという施設があるよ。私は行ってないけど、ここに寄るのもありかもね。

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 ここから高蔵寺駅へ向かう途中に、白鳥塚古墳があるよ。整備されて公園のようになってる。

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 白鳥塚古墳は愛知県最古の前方後円墳で、その大きさは115m!それでも愛知県では3番目の大きさ。名前の由来もおしゃれ。

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 この古墳はちゃんと登ることができるよ。階段や整備された道があるので、そこを歩いていこう。

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 前方後円墳の円の部分には石英で作られたサークルがある。元々、発掘当初から石英が敷き詰められていたのだそう。

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 せっかくの前方後円墳だから、その形がわかるように写真を撮りたかったんだけど、結構難しいね。横から見ると円の部分の方が高くなってるのがわかる。

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 次は、少しだけ駅へのルートから逸れて、東谷山白鳥古墳へ。

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 如何にも!な外見がいいね。造られた当初の石室が現存してる、市内唯一の古墳だそうで、貴重なもの。
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 中に入ることはできないけど、ドアの穴から中をのぞいたり、音声の説明を聞くことができるよ。奥行きが7mぐらいあって、石壁のさらに奥へ、亡くなった方の遺体を入れて、また塞ぐ、ということを繰り返していたそうな。
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 ここ以外にも古墳はあるんだけど、今日はここまで。

 名古屋で気楽な登山ができて、古墳も堪能できるので、ちょっとしたハイキングに是非。

『尼子氏の城郭と合戦』高守山城

『尼子氏の城郭と合戦』という本が、2018年に出ていたことをつい先日知ったので、さっそく買ってきました。

 まだパラパラ流し読みしただけなので、読み込めてはいないんだけど、ちょっと気になるところがあったので、まとめようかなと。

 

 本自体は、第一部で簡単な尼子氏の歴史と城郭の特徴を述べ、二部以降でそれぞれの城郭の地形図や高さ、難易度、城郭に関わる歴史について述べているという形式。

 

  それで、気になるところというのが、高守山城のページ。

 私の尼子家における最大の推しが中井綱家・久家親子なんですが、高守山城は久家が居城としていた城とされているんですね。(尼子十砦のパンフレット情報)

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 だからこそ何よりも先に読んだんだけど、中井平三兵衛久家の名前は一文字も出てこない。

 まぁ、もうマイナー好きとしては?存在を忘れられるなんて慣れっこですから?それは別に構わんと。そう思ったんですね。(パンフレットの情報だし、どこまで信用できるかわからんしね。)

 

 問題は中井久家の名がないことではなく、歴史の説明文の中にあったんですよ。

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 それがこれ。注目して欲しいのは、「1560年に城将・立原備前守幸隆が討ち死にした」という部分。尼子家の歴史に多少詳しい方であれば、「ん?」と思うのではないでしょうか。

 知らない方向けに説明すると、立原幸隆は、尼子再興の際、山中鹿介とともに毛利と戦った立原久綱の兄。幸隆は晴久の元で奉行として活躍し、義久の代でも最後まで尼子家に忠誠を尽くし、本田家吉や大西高由らとともに、安芸長田まで義久三兄弟に随行したとされている。

 勘の良い方は気づいて頂けたでしょう。立原幸隆が1560年に亡くなったとするなら、毛利に降伏した後(1566年)、義久達に随行した立原備前守幸隆って誰やねんと。

 明らかにこの本やらかしてる。ただの誤植なら誤植で済むんだけど、そうでないなら、この本全体の信憑性が気にかかってくるよね。

 この本、裏表紙でもやらかしてるから、ただの誤植だといいんだけどね。

景虎→○高虎)

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 著者の寺井毅氏は城郭研究の方だから、歴史には元々詳しくはないのかもしれない。

 参考にする際は多少注意が必要かもしれないけど、載ってる城郭は81種と多いので、「尼子関連の史跡巡りがしたい!」という方にはガイドブックみたいに使えると思うので、オススメ。

長久手古戦場

 過去にTwitterで公開したやつだけど、見辛いと思うので、こちらにもまとめます。

 4月上旬に花見目的で行ったので、桜が満開の時のやつです。

 

 じゃあ、さっそくいきますか。

 リニモの「長久手古戦場」駅から出てすぐに、長久手の合戦の説明と家紋が書かれたモニュメントが見えてくる。結構オシャレ。一つ一つ違ってて、簡単な説明も小さく書かれてるので、ここも注目してみよう。


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 そして駅から5分も歩けば、古戦場公園に着けるよ!

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 古戦場公園内の桜はこんな感じ。

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 ここの公園内には長久手市郷土資料室があるよ。でも、ここは6月から休館して新館を作るんだって。新館が完成するのは令和4年度になるそうな。

 ここで、パンフレットを入手して、場所とルートを確認。

 長久手古戦場公園武蔵塚→血の池公園→長久手城趾→御旗山→岩作城址→色金山→安昌寺→首塚→教圓寺のルートで行ったよ。一応、これで主要な史跡は押さえてるけど、さらに木下勘解由塚や堀久太郎秀政本陣地跡を訪れるのが、全制覇ルートね。

 一応、参考までに…

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 ここ、長久手古戦場公園には勝入塚と庄九郎塚があるよ。池田恒興とその嫡男元助のお墓だね。仏ヶ根の決戦で恒興は永井伝八郎に、元助は安藤直次に討たれたとされている。

 二つは少し離れて、公園内の片隅にひっそりと建ってる。この辺りだけ静謐な雰囲気。

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 公園から出て、しばらく歩いて武蔵塚の方へ。武蔵塚は恒興の娘婿、森長可(通称「鬼武蔵」)の墓。ここも桜が綺麗。鬼武蔵もこの桜に少しは癒されてたりするのかな。

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 この武蔵塚には「傷や汚れをつけないで!」という注意書きが貼ってある。鬼武蔵の眠るところを荒らすなんて、とんだ勇者だな。いるのかな、そんなやつ…

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 武蔵塚の次は血の池公園へ。名前から物騒だけど、これは鬼武蔵のヒャッハーが原因ではなく、徳川方の武将が血のついた武器を洗った池があったことから来てるらしい。

 中は普通の公園。桜も綺麗だよ。

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 そこからちょっと行くと長久手城趾。ここはちょっとした広場ぐらいの広さ。

ここの城主加藤太郎右衛門忠景は長久手の合戦の際、岩崎城に来ていて、そこで戦死したのだそう。岩崎城主丹羽氏次の姉が妻だったことに起因してるらしい。

 墓にはまだ新しい花が供えられていて、地元に愛されているのがわかる。

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 そこからしばらく歩くと、次は御旗山。山というよりかは神社。階段を2階分ぐらい登れば頂上に行けるレベル。

 家康が頂上に金扇の馬標を立てたとされている。

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 さて、ここからはしばらく歩くよ。20分ぐらいかな。ひたすら北西へ向かう。

 すると見えるのが岩作城址。ここは市役所の前に石碑があるだけ。

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 さぁ、次だ。本当は石作神社も行ったけど、人がいたので写真は撮ってない。岩作城址から色金山までの通り道なので、是非ここも立ち寄ってみて下さい。

 

 そして、この史跡ルートのメインの一つ「色金山」へ!

 中は広めの公園みたいな感じ。茶室もあって休憩もできるよ。自然がいっぱいで、展望テラスからの景色は絶景。

 ここには家康が軍馬に水を飲ませたという池があったらしい。

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 ここまで来たら後は駅に戻るだけなので、見逃した史跡を巡ろう。

 色金山のすぐ近くには安昌寺が。ここは、合戦後に戦死者を手厚く供養したという雲山和尚という方がいたのだそう。

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 はい、次は「首塚」。雲山和尚が戦死者の屍を集めて塚を築き、手厚く葬った跡と言われている。

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 で、最後になるのが「教圓寺」。家康がここで戦勝祈願したのだそう。

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 これで主要な史跡ルートは制覇。木下勘解由塚と堀久太郎秀政本陣地跡はかなり離れてるので、体力ある方か、もしくは車で行くのが正解かな。

 

 ほぼ街中を歩いてまわることになるので、歴史へのトリップ感は薄いけど、豊臣(織田)・徳川好きは楽しめると思う。どこも桜が綺麗なので、花見にも是非ご検討を。