カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

尼子家

安芸高田市の史跡巡り

安芸高田市歴史民俗博物館主催のシンポジウムに参加するため、安芸高田市に行ってきました。シンポジウムは午後からなので、午前中はフォロワーさんに安芸高田市内の史跡を紹介してもらいました。最初に行ったのは正明寺。 今は小さなお堂があるだけだけど、…

尼子氏関連史跡巡り

久しぶりのブログ更新。 前日に尼子フェスへ行ってきたので、そこで合流したフォロワーさんに尼子氏関連の史跡に色々連れて行ってもらいました!神西城麓にある十楽寺。 神西元通の代に再興されたみたいですね。古記録はほとんど残ってないみたいだけど、神…

中井家まとめ

中井綱家や久家については個別にまとめを作ったけど、中井家全体はそういえば作ってないなと思ったので、まとめてみました。 中井対馬守秀直 「竹生島奉加帳」に富田衆として記載あり。 「清水寺文書」において「吉筑以憤中井対馬守ヘ本物返…」とあり、吉田…

資料の中に見られる富田衆

2月12日は尼子晴久の誕生日ですね! とはいえ、晴久に関することで書けそうなネタが思いつかなかったので、今回はタイトル通り、尼子家家臣の富田衆に関してです。 晴久の命日(12月24日)に公開した記事で、河本家が富田衆としては数少ない尼子家を見限った…

座頭角都とは何者か?

久しぶりの更新です。晴久の命日だから何かしたいという思いで、発想は結構前からあったこちらを書き上げることにしました。晴久の命日とはあんま関係ない気もするけど、細かいことは気にしない。 さて、座頭角都についてですが、この人物に関してわかってい…

尼子晴久の没年について

本日、2月12日は尼子晴久の誕生日だとされています。そのようなめでたい日に投稿するのが「没年について」というのはいささか不謹慎な気もしないではありませんが、いまだに間違った没年が流布される事例もある以上、やるべきだと思った次第です。 とはいえ…

長谷寺に奉納された中井久家の絵馬に関して

8月29日は中井久家の命日だとされています。去年は忙しくしていたのでスルーしてしまいましたが、今年は久家に関する記事を投稿しようと心に決めておりました。 とはいえ、久家の生涯については以前別記事で書いているので↓ https://camonambam.hatenablog.c…

大山寺

先日、悲願だった大山寺へ行ってきた! 大山寺へは米子駅から出ているバスで行きました。大体50分ぐらいで、終点の大山寺に着きます。 着いた先にあるのはナショナルパークセンター。シャワーやロッカー、ベンチ、自販機など、登山やウィンタースポーツのた…

吉田郡山城と尼子久幸の墓(12/26)

昨日の夜の段階で降っていた雨は朝になっても降り続いていました。これはもうダメだなぁと思ったけれど、そもそも今回の旅の目的は、晴久の命日に菩提寺・墓を訪問することと安芸高田市歴史民俗博物館へ行くことの二つだったので、安芸高田市に行かない訳に…

安来史跡巡り(12/24)

12月24日は尼子晴久の旧暦の命日。ということで、菩提寺である宗見寺と月山裏にある伝尼子晴久の墓(+他にも色々)に行ってきた! 晴久は尼子にハマった最大のきっかけであり最愛の推しだから、これぐらい当たり前だよね!むしろこんな幸せなこともないよ! 今…

杵築同行者と尼子三兄弟御供との比較

以前書いた二つの記事「杵築同行者 陰徳太平記と雲陽軍実記の違い」と「義久三兄弟の御供衆について」を見比べていて気付いたことがあったので、それについてまとめてみようと思う。 camonambam.hatenablog.com camonambam.hatenablog.com まず、陰徳太平記…

義久三兄弟の御供衆について

1566年に月山富田城に篭っていた尼子側が毛利に降伏し、義久・倫久・秀久の三人が安芸長田まで連れていかれることになると、杵築までは多くの家臣が随行していったが、それ以降は限られた人数だけしかついていくことを許されなかった。 その面々を以下にまと…

福山肥後守 まとめ

現時点での福山肥後守の情報まとめ。何かわかり次第、随時更新します。 福山肥後守綱信 生年不詳。1565年没。 息子に福山源五郎がいる。 元々は吉田筑後守に仕えていたが、筑後守が播磨で討ち死にした後に晴久から領地をもらった。天文年間中に尼子十砦の一…

吉田八郎左衛門 まとめ

現時点での吉田八郎左衛門の情報まとめ。何かわかり次第、随時更新します。 吉田八郎左衛門義金 直景、久隆とも。兄弟に吉田筑後守、左京亮、三郎左衛門がいる。嫡男は四郎次郎。 生年不詳。没年は1570年もしくは1571年。 第二次月山富田城戦においては、弟…

吉田家・福山家 情報まとめ

吉田家 六郎左衛門清秀 四郎貞秀 筑後守ー伯耆の守護。1476年頃、中井対馬守に宇賀荘を売却した(清水寺文書)。播磨で討ち死に。 左京亮ー筑後守の弟であるが、祟り(感染症か?)によって子息が亡くなった筑後守の養子となる。松山において三村家親に討た…

杵築同行者 陰徳太平記と雲陽軍実記の違い

尼子義久たち三兄弟が1566年に毛利に降伏した後、杵築に連行されることとなったが、これに同行した家臣の情報が「陰徳太平記」と「雲陽軍実記」で異なっている。その違いは、そもそもの書かれた人数から家臣の顔触れまで及び、「雲陽軍実記」には書かれてい…

中井久家 まとめ

現時点での中井久家の情報まとめ。何か情報がわかり次第、随時更新します。 中井久家(1523~1605年) 陰徳太平記では久途(ひさみち)との表記もあり。通称は平三兵衛(軍記物語では平蔵兵衛、平蔵表記もあり)。 伝承では1523年生まれとされる。中井綱家の嫡男…

尼子館と勝楽寺と藤堂高虎関連

昨日(8月12日)に滋賀県の尼子駅周辺を探索してきた。1番の目的は尼子館だったけど、最終的には藤堂高虎関連の史跡と佐々木道誉に所縁のある勝楽寺にも行ってきた。 尼子館は尼子駅から歩いて15分から20分ぐらいのところにある。今は土塁公園という名前になっ…

竹生島奉加帳 富田衆まとめ

自分用に竹生島奉加帳の富田衆の情報をまとめておく。 米原正義先生による富田衆の定義は「富田城詰めの諸将」であり、「直臣で奉行」。 岡崎英雄氏の富田衆の定義は「尼子直轄地から扶持を受ける直臣」、出雲衆は「郡代官より米の廻送を要する家臣」。 今岡…

「竹生島奉加帳」と「尼子家旧記」の中井家

資料の中の中井家シリーズ、今回は「竹生島奉加帳」と「尼子家旧記」に関して。 竹生島奉加帳は1540年当時の尼子家家臣団を知ることができる貴重な資料。 この中では中井家は ・中井助右衛門尉 ・中井対馬守秀直 ・中井四郎兵衛尉 の3人の名が載っている。 …

尼子分限帳に関する個人的見解

https://camonambam.hatenablog.com/entry/2019/07/12/221940 以前、尼子分限帳に関する岡崎英雄氏の見解をまとめたので、今度は自分の考察とか意見とかをまとめてみる。 正直なところ、尼子分限帳の信憑性に関して私はまだまだ疑っている。以前も書いた川副…

『新雲陽軍実記』内の中井家

『尼子物語』はやったので、次は『雲陽軍実記』の中の中井家について。 まず、中井という苗字の人物を列挙していくと ・中井駿河守久包 ・中井平蔵(平三兵衛) ・中井兵衛* ・中井助右衛門 ・中井善左衛門 ・中井與次郎 以上6名が登場。(平蔵と平三兵衛と2種…

『尼子物語』内の中井家

『尼子物語』内で書かれた中井家関連のことで、気になることと考察とか。 まず、気になったのは中井久家こと中井平三兵衛の名前の表記。『尼子裏面史』や『尼子氏関連武将事典』では、平“三”兵衛と書かれていたのに対し、『尼子物語』ではそう書かれてたのは…

雲陽軍実記と陰徳太平記とか、尼子が好きな理由とか

とうとう図書館でハーベスト出版の『新雲陽軍実記』と『尼子物語』を借りてきた。 『尼子物語』は陰徳太平記の尼子氏関連の部分だけを抜き出したもので、『新雲陽軍実記』は言わずもがな、雲陽軍実記の現代語訳。 尼子家を知る上でなくてはならない2冊ではあ…

『尼子氏の城郭と合戦』高守山城

『尼子氏の城郭と合戦』という本が、2018年に出ていたことをつい先日知ったので、さっそく買ってきました。 まだパラパラ流し読みしただけなので、読み込めてはいないんだけど、ちょっと気になるところがあったので、まとめようかなと。 本自体は、第一部で…

中井綱家 まとめ

中井綱家についての現時点での情報まとめ(随時更新します) 中井綱家(久包)(1496-没年不詳) 1496年7月12日生誕。秋上文書寄進状内に「生年丙辰歳七月十二日誕生是也」との記載あり。 中井家清の子か。通称は助右衛門(助左衛門・助衛門表記もあり)、官名は…

『殉死の構造』オマケ

そういえば、『殉死の構造』に山中鹿介の子孫について載ってたので、軽く触れておこうかな。 山中又兵衛氏連 山中鹿介の玄孫。細川光尚の近習、200石をとった。1650年に亡くなった光尚に殉死した。大阪落城後、牢人となっていたが光尚に召し出され、江戸に下…

『殉死の構造』感想と考察

講談社学術文庫の山本博文の『殉死の構造』(2008年)を読んだので、感想と尼子晴久の殉死者について軽く考察を。 内容としては、江戸時代における殉死について、その人物の立場や殉死の理由を見ていくことで、それがどのような意味であったのかを探るというも…