カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

長谷寺に奉納された中井久家の絵馬に関して

 8月29日は中井久家の命日だとされています。去年は忙しくしていたのでスルーしてしまいましたが、今年は久家に関する記事を投稿しようと心に決めておりました。
 とはいえ、久家の生涯については以前別記事で書いているので↓
https://camonambam.hatenablog.com/entry/2019/09/06/134138
詳しくは上記の記事を参照してください。
 久家関連でまだやっていないことで、今の自分に書けそうなネタは「長谷寺の絵馬」についてしかないんですよね。まぁ追々、検証してみたいことは色々あるのですが、資料と私の知識が追いついてから書くこととします。

 それでは、前書きが長くなってしまいましたが本題に入りましょう。

 鳥取県倉吉市打吹山の一角に長谷寺という天台宗のお寺があります。ここに奉納された、二額一対の大絵馬が今回の主題になります。
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 長谷寺に現存する大絵馬のうち、最古のものは1531年に奉納された「繋馬図」ですが、次に古い絵馬が中井久家の奉納した「繋白馬図」と「繋黒馬図」の二額です。どちらも天文18年(1549)十月吉日に奉納されたと裏面に記されています。
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 久家の生年が1523年とされているので、久家が27歳の時奉納されたものですね。ちなみに、この絵馬について、郷土史家の岡崎英雄氏が『尼子裏面史』において自身の考えを述べられています。
 自称岡崎英雄氏の弟子としては是非このことについて検証してみたいと思っていたので、このことについて書いていこうと思います。

 岡崎英雄氏の見解を簡潔に述べるとこうです。
 「陰徳太平記」に記載されている、新宮党の横暴の一つ、「中井平三兵衛髭事件」をきっかけに奉納されたものだということです。「平三兵衛髭事件」に関しては上記のブログにまとめてあるので、そちらを参照して頂くとして、そのことを踏まえた上で改めて説明していきます。
 まず、この「平三兵衛髭事件」は陰徳太平記にのみ記載されていることで、雲陽軍実記には「新宮党のことを中井平三兵衛もよく言わなかった」という記述に留まっています。
 そもそもの話、雲陽軍実記は新宮党を誅滅したことを晴久が毛利の策略に嵌まったからだとする、新宮党贔屓の視点で書かれており、晴久や義久を愚将であるかのように印象付けたいような記述が目立つので、「髭事件」を敢えて書かなかった可能性もあり、この件に関しては雲陽軍実記は参考にできません。とはいえ、新宮党が誅滅された後も尼子家の求心力・統率力が衰えていないことから、新宮党と晴久方の家臣団の間に深い溝が生じていただろうことは推測できます。また、新宮党と衝突(というより一方的な暴力ですが…)した者が里田采女、目黒右近など他にもいることから、新宮党に反感を覚える者は少なくなかったのではないかと考えられます。
 少し脱線してしまったかもしれませんが、とりあえず中井久家が尼子誠久によって髭をなじられ、暴力を振るわれたという事件が実際にあったという前提で進めていきたいと思います。
 その「髭事件」が起こったとされている時期は不明ですが、「天文12年に誠久が里田采女、目黒右近を富田城中で広縁より庭上に擲った」という記述があることから、1544年から1553年の間に起こったのではないかと考えられます。
 久家が長谷寺に絵馬を奉納したのが1549年であるので、この期間内ではありますね。
 また、岡崎英雄氏は絵馬を奉納するのは「人生の危機に際して神仏に祈願する」ためであるということを根拠とし、新宮党の横暴を晴久に伝える覚悟を決めるために、大絵馬を奉納したのではないかというように考察しています。新宮党がいくら横暴であろうとも、主君晴久の親族で、家中で武を誇る一大勢力であるという事実は変わりませんからね。重臣の一族とはいえ、一家臣がその暴力性を訴えるには、それこそ命を賭すほどの覚悟が必要になるのでしょう。それ故の絵馬奉納だと岡崎氏は考えている訳ですね。
 以上の点から、岡崎英雄氏は久家の絵馬奉納を「髭事件」という新宮党の横暴を、主君である晴久に伝えるための覚悟を決めるために行なったというように解釈しています。

 しかし、私は「髭事件」と久家の絵馬奉納は直接関係ないのではないかと考えています。当然ですが、髭事件が実際にあったかどうかは私にはわかりませんし、確かめる術もないので、とりあえず陰徳太平記が記す通りに事件があったという前提で考察していきます。
 まず、陰徳太平記においては、誠久によって暴力が振るわれた次の日に晴久に対面していることになっています。大絵馬の製作を、仮に事件があったその日に依頼していたとして、次の日に晴久に会っていたとしたら、確実に奉納する時間なんてできないでしょう。
 大絵馬は二額一対で同日に奉納されています。また、大きさも「繋白馬図」が155.0×185.2㎝、「繋黒馬図」が161.0×190.5㎝と、かなりの大作です。どれだけ偉大な画家であっても、依頼のあったその日のうちに、奉納できるレベルの作品を作り上げるなんて不可能でしょう。また、移動時間も加味するとさらに現実的ではない時間で完成させなくてはいけません。絵馬の願主部分に「雲州住」とあるので、恐らく久家は富田城の周辺にいたであろうと思われます。そんな久家が一日で絵師に絵馬を制作させ、倉吉にある長谷寺まで運び、奉納を完了した後、出雲まで戻ってくるというのはかなり無理があると思います。これを成し遂げるのは現代の技術を持ってしても厳しいでしょう。
 要するに、久家が「髭事件」をきっかけに絵馬を奉納したのだと仮定すると、陰徳太平記の記述のように、事件の翌日に晴久に面会して誠久の横暴を伝えるのは時間的に不可能であると考えざるを得ないのです。
 仮に「髭事件」があってから晴久に面会するまでに、依頼から奉納までを完了させるとするならば、その間に数ヶ月は空いていないといけなくなり、久家に並々ならぬ執念があったことになります。確かに久家の髭は晴久も褒めるもので、本人の自慢でしたから、それを傷つけられたのはそれほどにショックだったのかもしれません。とはいえ、それが事実だとしたら、かなり息の長いチクリだなぁと思ってしまいます。その間に晴久や誠久に会うこともあるでしょうし、誠久に会ったとしたら髭について何かしら言われるでしょうから、やはり現実的ではありませんね。
 もし、晴久の対面後に絵馬を奉納したのだとしたら、覚悟を決めるためという意味はなくなります。
 以上の点から、時系列だけで考えてみても岡崎英雄氏の解釈は成立しないとみていいのではないかという結論に至るのです。
 さらに踏み込むと、大絵馬の奉納理由は岡崎英雄氏の言うように「人生の危機に際して神仏に祈願するもの」ということとは別に存在します。この理由はどちらかというと大絵馬ではなく小絵馬に該当するもので、大絵馬自体には天候良順を祈願するという意味が込められているのです。
 まず、絵馬の起源は神の乗り物である生馬を捧げたことから来ているとされています。そして、絵馬には、個人的な願いや悩みが中心となる吊り下げ型の「小絵馬」と、寺社の絵馬堂や本堂に飾られるような「大絵馬」の二種類があります。
 馬の奉納が天候良順を祈願したものということですが、白馬には雨が止むことを、黒馬には雨が降ることを、それぞれ願うという意味があるそうです。これらを二額一対で奉納するということは適度な降雨や土砂災害を避けるという意味合いがあったのではないかと考えられます。調べていないのでどうかはわかりませんが、この前年に大きな水害や干害があって不作に見舞われていたとしたら、それが大絵馬奉納の理由になると思います。本当はその記録まで調べられれば裏付けられるんですが、まぁそこまでは致しません。時間や資料があればやりたいものですけどね。
 さらに、天文年間には打吹山のすぐ近くにある賀茂神社尼子晴久が再建したという情報も伝わっています。天文年間中に晴久が倉吉まで勢力を拡大し、寺社仏閣に対し保護や支援を行なっていたことがわかりますと、長谷寺への大絵馬奉納も地盤を固めようとする晴久の策略であるという風に考えることができるのです。
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賀茂神社のパンフレットの社歴部分

 また、中井久家は富田衆という直臣に該当し、晴久は富田衆に奉行としての仕事を多く与えていたとされているので、より一層長谷寺への絵馬奉納が中井久家に与えられた奉行としての業務に過ぎないのではないかと考えられるのです。

 結論、長谷寺の大絵馬の奉納は「鬚事件」とは関わりのない、晴久から久家へ奉行として与えられた一つの仕事ではないかというのが私の意見です。

 多くは倉吉博物館賀発行した『長谷寺の絵馬群』と岡崎英雄氏の『尼子裏面史続』を参考にしました。時系列については自分の考察ですが、そちらについては妹尾豊三郎氏の『尼子物語』や『新雲陽軍実記』を参考にしております。
 鬚事件がいつ起こったのか、また実際にあったことなのかについては白紙に戻りましたが、晴久の堅実さがわかったのでプラマイゼロということにしましょう。
 でも、もしかしたら誠久の横暴への詫びに晴久から久家へ何かを下賜したかもしれないし、何か大きな仕事を任せるというようなことをしたかもしれませんね。その仕事が大絵馬奉納の依頼だという可能性も0ではありませんし。
 それでも、現時点ではわからないことだらけなので、また何かわかれば新たに書きたい所存であります。