カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

中井綱家の魅力

 7月12日は中井綱家の誕生日!
 推しの誕生日とあっては、私もテンションが上がってしまいますね。とはいえ昨年同様、言葉で祝うだけではなんとなく物足りない気がするので、私の考える中井綱家の魅力をお伝えしようかなと思います。
 まぁ歴史学者でもない、ただの歴史好きの一般人が述べる魅力ですので、思いっきり私情が入ります。私感入り乱れの内容となりますので、変なやつが何か言ってるぐらいに思って頂ければ幸いです。

 第一の魅力はやっぱり晴久の守役を務めたことですね。守役って将来的にその若君の重臣になる前提で選ばれる訳ですからね。つまり、信頼できて将来有望な存在であると、経久や政久から思われてたと考えられる訳ですよ。1496年生まれで晴久とは18歳差だから、晴久が生まれてすぐに守役に任命されたとしても20歳前後の青年な訳で、その頃から将来を期待されていたっていうのは凄いことだと思うのです。若い頃から優秀だったと考えられるし、それからの家老就任というのはずっと尼子家からの期待に応え続けてきた実績としても想像できて、綱家が如何に優秀かというのを知る手がかりにもなる訳です。最高ですよね!

  • 家老

 先程も軽く触れた家老についてですが、重要なことなので改めて話しましょう。しかしながら、綱家を明確に家老と記している資料って名将言行録と尼子分限帳の2つだけなんですよ。信憑性がうーんな資料…。とはいえ、雲陽軍実記には13人の家老がいたとされ、その中に綱家が含まれていたかどうかは確証がないものの、宇山飛騨守とともに内通の疑惑を受けた事件からしても、綱家が家老に含まれていない可能性より含まれている可能性の方が高いのは想像に難くない。そして、嫡男である久家が尼子家旧記において中老と記されていることから、綱家が出家して引退した後にその任を引き継いだと仮定しても、綱家が中老以上の立ち位置にいたと考えることができます。
 よって、綱家が家老であった可能性はかなり高いと言える訳ですね。尼子分限帳では87000石と四家老の中では末席ですが、なんて言ったって家老ですからね。晴久が最も頼りにできる存在の一人として認識していたというのは事実なので、もうそれだけで私は幸せです。晴久が幼い頃からずっと頼りにしてきた存在とかヤバい。しかも、宇山飛騨守とともに自分が内通してるかもしれないと疑惑かけられても、出家して富田城に残った訳でしょ?晴久死後も揺るがぬ忠誠心を持ち続けるとか、武士の中の武士だよ…。カッコよすぎ…。
 そして、綱家が投降しようとする者に米を与えて叱咜したエピソードがありますが、筆頭家老であった宇山飛騨守はともかく、この時の綱家は然程富饒ではなかったとされています。そんな中、僅かな米を与えて引き留めようとした綱家は正しく有徳人ですよね。
 しかも、尼子三兄弟の杵築行きまで同行した後は、大山寺経悟院に身を寄せていたのに、いざ尼子再興戦が始まると、久家を参戦させるために、監視の目を引きつける陽動として法勝寺に移ったんですよ。伝承曰く、15名の監視を綱家に常駐させていたらしく、毛利にとってそれだけ脅威だったと考えられるんだけど、これってすごくない⁉︎それに、監視がいなくて年も若ければ、綱家は喜んで再興戦に参戦したんじゃないかな?って思う。ほんとどれだけ尼子家に忠誠を誓うんだよ!久家も父の意向を酌んでか、自身の身に危険が及ぶまで再興運動に尽力したしね。なんという親子だ。あまりにも尊い。他の家老に爪の垢を煎じて飲ませたいよね。私の中では尼子一の忠臣です、この親子は。
 家老というテーマからはズレたけど、その揺るがぬ忠誠心も魅力の一つなのでノープロブレムですね。さて次行きましょう。

  • 人柄

 さて、今までも妄想強目で来ましたが、ここは更に妄想全開の内容になります。
 上記でも言ったように経久や晴久からは信頼されていたと思うので、真面目な性格だとは思います。何より米係という財政を担当する役職についていた訳ですから、いい加減な人物ではないでしょう。多胡辰敬が家訓の中で言っていることですが、「正直な者には蔵を預ける」のが当時としても理想だった訳で、それを踏まえても、綱家は正直で信頼に足る者と考えていいと思います。
 だからといって真面目一辺倒だった訳ではないのが、また魅力なんですよ。綱家署名の書状にこういったものがあります。
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 永禄二年に書かれたとされるものですが、内容としては陣中にある綱家に出陣前に納めた祈祷料の増額を訴えた使に対する返答になります。これだけじゃわかりにくいので、この文書の岡崎英雄氏の要約を以下に載せます。
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 駿河守は当然綱家のことですが、使は秋上大炊助の使者ですね。読んで頂ければわかるように、綱家も冗談言ったりするお茶目なところがあるんですよ。まぁ戦中の相手にもっと米よこせという使者を飛ばす、秋上家も大概変だと思わなくもないのですが、当時は神職もしたたかだったということでしょう。それよりも、ユーモアを交えて返信する綱家から見え隠れする大人の余裕にキュンときます。しっかりしつつも、とっつきやすい人柄だったんでしょうね。ただ堅苦しい人ではなく、ちょっと隙を見せるところがずるいなぁ…。
 総合すると、信頼できて、正直で、真面目で、ユーモアもあって、揺るがぬ忠誠心を持つ人物ということですね。完璧超人かな?

  • 晴久との信頼関係

 さて、それでは最後に晴久との関係性について話していこうかと思います。
 守役なので当然、幼少期からの付き合いになる訳ですが、この頃はほとんど情報がないので妄想しかできないんですよね。なので、この時代は私の想像に過ぎないのですが、晴久を語る上で祖父・経久と父・政久の存在は外せませんよね。経久はともかく、政久は晴久が物心つく頃には戦死してしまいます。そんな晴久にとって育ての親である守役は、精神的にかなり支えになる存在だと思うのです。実際、武家の子息は幼少期、守役の屋敷で育ったり、守役が屋敷に住むということがあったと言われています。父を幼い頃に亡くし、叔父や従兄弟とは後々あんなことになってしまう関係だった晴久にとって、綱家はどういう存在だったのか…妄想が止まりませんね。家老にしていることや“久”の字を偏諱として与えていることからしても、絶対に険悪な仲ではなかったでしょう。むしろ晴久から絶大な信頼を得ていると思います。
 絶大な信頼を寄せていることは、新宮党誅滅の際に綱家が国久の討ち手の一人に選ばれたことにも表れています。親戚筋で尼子家の武を担っていた新宮党は、家臣団との間に溝を深めていきます。家中に分断を起こしかねない存在である新宮党を滅ぼすことを決断した晴久ですが、やはり表立って争う訳にもいきません。なので権力者である国久と誠久には、信頼に足る者を討ち手として差し向けます。誠久には大西十兵衛と立原備前守を。国久には本田豊前守と平野又右衛門、三刀屋蔵人、そして綱家を派遣します。いずれも富田城が落城するまで残った忠臣揃いですね。することがすることだけに、余程信頼できる者にしか頼めないことであったと思います。それだけに綱家に対する晴久の信頼が窺えますね。
 この頃のことで言えば、晴久が八ヶ国の守護に補任されたり、修理大夫に任官されていますね。ちなみに綱家が駿河守に叙任されたのも、資料の日付から1551年6月28日〜1554年3月27日までの間とされているので、ほぼ同時期だと考えられます。恐らくこの頃に家臣の編成が行われたのでしょうけど、それでも米係として内政をコツコツ頑張ってきた綱家をきちんと評価したという事実を嬉しく感じます。
 まぁ綱家は晴久が出陣する際は同行しているんですけどね。吉田郡山戦とか1558年の小笠原氏救援とか。戦で活躍したエピソードなんていうのは聞いたことがないものの、重要な戦にはしっかり出陣しています。でも内治派の人間ですから、戦で大活躍とかは想像しづらいんですよね。してたらしてたで、惚れ直しますけど。
 そういえば綱家と晴久の関係とはズレますが、久家との関係も気になりますね。“久”の字は晴久の偏諱を賜ったのかな?親子共々貰ってるなら、相当大事にされてますよね。晴久の衆道相手ともされる米原綱寛は“久”の字与えられてませんからね。中井親子の方が上ということですよ、ふふん。
 久包という別名は軍記物内にしか登場しないので私はあまり使わないんですが、岡崎英雄氏曰く、尼子家内で固有名と併せて名乗ることが許されているのは、数少ない家系のみだそうです。特別扱いですね、ありがとうございます。

 余談ですが、晩年について少し。晩年の綱家は法勝寺にいたと伝えられていますが、法勝寺というと、経久夫人が富田周辺によく似ていると言って、永禄年間に経久寺を建立した場所でもあります。綱家と経久寺との関係は不明ですが、もし身を寄せていたとしたら綱家もまた富田の雰囲気を感じながら過ごしたのかもしれないですね。若き日の自分や晴久と過ごした日々に思いを馳せていたなんて姿も妄想できます。1571年まで記録があるとはいえ、それ以後の動向は不明です。尼子家旧記には「法勝寺で没」とあるので、そのままその地に骨を埋めたのでしょう。久家が吉田八郎左衛門とともに裏切りの疑惑を受け、再興戦から離れたことは知っていたのでしょうか。もし知っていたら失意の中、亡くなったのか…。せめて穏やかな晩年を過ごして欲しいと思います。

 長くはなりましたが、以上で魅力語り終了と致しましょう。7月12日のうちに投稿しようと思ったら、長くなり過ぎて越えてしまいました。反省反省。いやまぁそれだけ魅力的な人物である証拠ですね。綱家最高!