カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

中井家まとめ

 中井綱家や久家については個別にまとめを作ったけど、中井家全体はそういえば作ってないなと思ったので、まとめてみました。

中井対馬守秀直

 「竹生島奉加帳」に富田衆として記載あり。
 「清水寺文書」において「吉筑以憤中井対馬守ヘ本物返…」とあり、吉田筑後守が清水寺多気宝殿造立の資金を得るために、宇賀荘一円を中井対馬守に売却したことがわかる。
 天文二年二月五日の「日御碕文書」には犬田の地を日御碕神社に寄進したことが記されている。
 岡崎英雄氏は秀直を能義郡土一揆の指導者であると考えており、それ以前は海賊大将として李朝世相の宮廷に出入りしたと考察している。
 彼の名が記された最終文書は天文九年八月一九日の「竹生島奉加帳」であり、その後の消息は不明。

中井備後守家清

 「竹生島奉加帳」富田衆に書かれた四郎兵衛尉と同一人物か。家清の“家”が綱家、久家に偏名に譲られていることから、綱家の父親だと考えられる。
 天文十二年二月十日の「松阿弥文書」に、松尾左馬頭重長と同列に署名花押している。また、「松阿弥古記」によれば、「十神山城主松尾左馬頭繁長御家来 中井備後」と記されているので、松尾氏の家臣であったことが窺える。しかし、尼子家臣内に松尾氏というのは見られないので、松田氏が一時的に名乗っていた姓の可能性がある。
 天文十二年以降の消息は不明である。

中井平三兵衛久家

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中井四郎左衛門尉

 「尼子家旧記」に「雲州にて死」と記載あり。久家の弟か子かと思われる。

中井藤五郎

 「尼子家旧記」に記載。四郎左衛門の子。

中井次郎右衛門尉

 「尼子家旧記」に記載。

中井兵衛

 「雲陽軍実記」に登場。小笠原長雄の救援の際に、綱家・久家とともに従軍。

中井助右衛門

 「陰徳太平記」と「雲陽軍実記」に登場。1566年の杵築同行者の一人、また、1569年に再興に応じて忠山に馳せ参じる。中井平蔵兵衛とともに書かれていることから、その子かと思われる(中井四郎左衛門と同一人物か)。

中井与次郎

 「陰徳太平記」と「雲陽軍実記」に登場。杵築同行者の一人。また、上月城に立て籠った際にも、その名が見える。

中井善左衛門

 「陰徳太平記」と「雲陽軍実記」に登場。横道兵庫介の姪婿で、布部要害山の合戦(1570年)で痛手を負って休んでいた兵庫介を討ち取った。二月十四日の合戦の数日前(「陰徳太平記」では十日前)に毛利に寝返っていたとされる。