カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

資料の中に見られる富田衆

 2月12日は尼子晴久の誕生日ですね!
 とはいえ、晴久に関することで書けそうなネタが思いつかなかったので、今回はタイトル通り、尼子家家臣の富田衆に関してです。
 晴久の命日(12月24日)に公開した記事で、河本家が富田衆としては数少ない尼子家を見限った一族のように記述したのですが、後日検証してみると、その見限った一族の数が誤っておりまして(ブログ内の数字は既に訂正してあります)、改めてその検証結果を明かしておこうと言うのが、本記事の制作意図です。
 最初に何故誤った数字を書いてしまったのかというと、岡崎英雄氏の『続尼子裏面史』p148にて、「竹生島奉加帳富田衆三十八将中富田下城迠相届衆に記録されなかったのは河本、山佐、今津、雑賀の四家に過ぎない」と記載があったのを鵜呑みにしてしまったことが原因です。自分でちゃんと検証すれば防げた事態なので、大変反省しております。

 それでは本題。
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 検証結果はわかりやすくするため、表にまとめてみました。同一人物と想定される場合は色を赤・青に変更してあります。
 今回用いた資料は、左から竹生島奉加帳、尼子分限帳、尼子家旧記、陰徳太平記の杵築同行者部分、二宮佐渡覚書となっています。尼子家の家臣が列挙されている資料を信憑性度外視で集めた感じですね。
 この中で一番信用できるのはもちろん竹生島奉加帳なのですが、私は尼子家旧記と二宮佐渡覚書はその次に信用できる資料ではないかと考えています。何故かというと、それらは毛利側が尼子家の家臣を管理するために作ったものだと考えておりまして、だとすれば虚偽を書く理由がないんですよね。むしろ正確な方がいいはずで、そういう意味でも信頼性は高いんじゃないかと思います。
 尼子分限帳はいつ成立したかもわからなければ、書かれている武将の活躍時期も合わない、後の老中クラスの武家が書かれていない、本田豊前守に至っては二ヶ所別の役職で書かれているなど、無茶苦茶なんですよね。一応尼子家の家臣を知るためには向き合うべき資料なので、載せましたけど…。
 杵築同行者に関しては陰徳太平記から抜き出しましたが、これは雲陽軍実記から尼子三兄弟の御供を引いて、中井駿河守・平三兵衛親子を加えた結果です。要するに軍記物枠です。尼子家旧記とはほぼ同時期の家臣団を表しているはずなので、比較するに有用かと思います。

 富田衆は26家とあまり多くないので一気に載せられました。でも、恐らくですが福瀬は福頼の誤字ですかね。他の資料では一切出てこないですし、“瀬”と“頼”似てますもんね。一応書いておきましたが、25家と仮定して進めていきたいと思います。
 尼子分限帳は成立年代不明なので置いておくとして、竹生島奉加帳は1540年に成立してます。
 尼子家旧記は富田下城迠相届衆のことなので、1566年に富田城が開城した段階で城内に残っていた114名(資料によっては116名)を表しています。
 杵築同行者は義久達を安芸に護送するにあたって同行を申し出た家臣達なので、開城してすぐ後、つまり尼子家旧記とほぼ同時期の家臣を示すはずです。
 三兄弟の御供は杵築以降も義久達と共にいた家臣なので、同じく1566年には判明していたことでしょう。
 要するに尼子分限帳以外は1566年頃の家臣団を表しているはずなのです、理屈上は
 理屈上はというのを強調しましたが、上の表を見て貰えばわかるように、尼子家旧記と三兄弟御供はすべて名前が一致するのに対し、ほぼ同時期の家臣を示すはずの杵築同行者は半分も一致しません。半分以上の家臣が揃って改名でもしない限り、こうはならないはずです。名前はまぁいいとして、人数どころか家すら合わないのはおかしいですよね。富田城が開城した段階ではいなかった武家(古志・疋田)が、杵築までの同行は申し出るというようなことがあるでしょうか?逆ならまだわかるんですけどね、同行するのは義久達との別れを惜しむ同志のようなものですし…。一致するのが河副美作守、屋葺右兵衛、山中鹿介、横道兵庫助、横道源介、中井駿河守、中井平三兵衛+御供衆だけとは…。ちなみに中井駿河守、平三兵衛親子は雲陽軍実記には書かれていないので、雲陽軍実記に関しては一致する人数がさらに減りますね。やっぱり軍記物は信用なりませんなぁ…。

 話は逸れましたが、この表から判断できることはかなりあると思います。
 竹生島奉加帳以外に名がない家が福瀬を除くと4家あります。今津、雑賀、高来、山佐の4家は1566年以前に離反したか、消滅してしまったのでしょうか。尼子家関連の一次資料とか手当たり次第確認できればいいんですけどね。今の私には無理です。
 富田衆の中で尼子家旧記に名がないのは上記の4家を除くと、亀井、河本、古志の3家のみです。3家とも尼子分限帳には記載があります。軍記物内で大身だったけど離反した家という中に亀井も河本も書かれていましたね。古志は杵築同行者に名がありますが、離反したのが河本家よりも後だったから、雲陽軍実記の著者である河本隆政が把握していなかった可能性が考えられます。そうなると亀井家は重臣だったはずなのに随分と早くに尼子家を見限ったともとれますね。確認する術はありませんが。
 そうなると25家中7家が竹生島奉加帳にあって、尼子家旧記にない家ということになるわけですが、岡崎英雄氏の指摘する数とまったく違ってきちゃうんですよね。私は竹生島奉加帳にしろ、尼子家旧記にしろ、『島根県史七・八』を参考にまとめたのですが、誤字脱字がそんなにあったのでしょうか…。一応岡崎氏の指摘する4家はすべて一致しますけど…。岡崎氏と私でここまで差があるのは何故なのでしょう…わかりませんね。

 この時点で本来の目的であった検証は完了したのですが、ついでなのでもう少し。
 竹生島奉加帳と尼子家旧記にあって、尼子分限帳にはない家は全部で五家。松浦、目賀田、安井、屋葺、そして後の老中である高尾家もあるので、無茶苦茶ですね。それに湯原弥二郎は1540年に亡くなってるはずなので、鹿介とは生きた時代が違い過ぎる…。でも、書かれてる名前は割と有名どころな気もするし…。やっぱり「尼子分限帳」は謎の多い資料ですね。

 今回は富田衆のみで調べたので、出雲衆やどちらにも属さないその他でも検証してみたいです。今回使った資料以外にも使えそうなものがあったら、逐一調べていけたらと思います。