カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

座頭角都とは何者か?

 久しぶりの更新です。晴久の命日だから何かしたいという思いで、発想は結構前からあったこちらを書き上げることにしました。晴久の命日とはあんま関係ない気もするけど、細かいことは気にしない。

 

 さて、座頭角都についてですが、この人物に関してわかっていることは、それほど多くありません。それというのも『雲陽軍実記』という資料にしか登場せず、新宮党を滅ぼした時と、第二次月山富田城戦以外にはほとんど記述もないからです。

 とりあえず、『雲陽軍実記』でどのように書かれているかを簡単に箇条書きにしてみます。

  • 尼子晴久の時代から仕え、昼夜晴久のそばにいて酒宴の相手をし、軍議・政道を怠らしめた。
  • 自分にとって都合の悪い人物は、様々な讒言をして領地を取り上げさせたり、切腹させていた。
  • 新宮党の面々に頗る冷酷に扱われていて、何かにつけて晴久に讒言していた。
  • 新宮党の長である国久は角都を「役に立たない盲人を抱えおき、一族老臣を足蹴にするとは言語道断である。第一兵糧のためにも益がない。いずれ討ち果たし、役に立たない遊び人は君側から追放しなくてはならない。」と評していた。
  • 国久の怒りを知った角都は晴久に成敗されるかもしれないのでお暇したいと言い、晴久は世が治まるのを待ってから戻ってくるよう伝えた。
  • 元就はそのことを知ると、角都の後をつけさせ接触をはかり、新宮党が毛利と密通しているという嘘の情報を教え、これを聞いた角都は一転出雲に戻り、晴久にそのことを伝えた。
  • その後、角都は本丸に移され以前にも勝る寵愛を受け、義久の代まで君を欺き続けた。
  • 第二次月山富田城戦においては、大塚與三右衛門とともに義久に讒言をし、数十人を殺害、もしくは離反させた。
  • 宇山飛騨守が切腹し、果てる日の朝未明に、大塚の使者として宇山を訪問し、隠し勢でもって義久を襲うよう伝えた。
  • 宇山の死を見届けた後、本田が角都の宅を訪れると、年賀の礼に廻り、酒に酔った姿で帰宅したばかりであった。本田はさっさと角都を討ち取るとその首を引っ提げて義久のもとに向かい、大塚もまた大西、熊谷の手によって討ち取られた。

 以上が角都という座頭について書かれた部分の概略になります。一応わかりやすく時系列順にしてみました。改めて見てもクズですねー。これはひどい

 

 では、ここから以上のことを踏まえた上で、角都について考察していきたいと思います。

 座頭なので、目の見えない芸人だったのでしょう。

 そして、いつからかは不明ですが、晴久の代になって仕え、1566年に殺害されるまで尼子家の元にいた。新宮党誅滅の関係者だったことからして、1554年以前にはすでにいて、晴久から寵愛されていたと考えられます。国久から逃れるため暇をもらった期間を除いても、少なくとも12年以上、それだけ長い間にわたって晴久と義久から寵愛され続けたわけですね。自分にとって都合の悪い人物には讒言して消したり、失脚させていたにも関わらず…。

 角都のことを考えれば考えるほど、何だこいつという思いでいっぱいになります。

 国久は角都のことを何の役にも立たない穀潰しと言っていますが、正しくその通りですよね。ど正論中のど正論。むしろ何故、国久以外の家臣たちは角都のことを長年黙認していたのでしょうか?

 大塚與三右衛門は義久の側近です。彼についても情報は多くありませんが、第二次月山富田城戦において多くの讒言をし、家中の混乱を招いた人物として角都と共に討たれます。晴久の時代はどうだったのか、富田城戦以外ではどうだったのか、その辺りは分かりません。ですが、讒言をし、主君を誑かす者が他の忠臣からどう思われるのか、そんなこと火を見るより明らかでしょう。結果として彼は、中老だった本田、大西双方の怒りを買い、討たれることになりました。

 では、何故、結果的に新宮党滅亡の補助をし、多くの家臣を失脚させ、主君の寵愛をほしいままにしていた角都は、12年以上も新宮党以外の誰からも恨みを買わずに過ごすことができたのでしょうか?

 運が良かったからでしょうか?晴久からの寵愛が厚かったからでしょうか?讒言を恐れたからでしょうか?

 そんなわけがないでしょう。そんな人物存在しなかったと考えるのが一番納得がいきます。

 陰徳太平記が彼のことを存在しないものとして扱ったことからしても、香川正矩も同様に思ったのでしょう。座頭角都の存在はあまりにも都合が良すぎる。

 どう都合がいいのか。晴久を愚将に仕立て上げるのに都合がいいのです。

 義久と大塚與三右衛門のエピソードの中に、角都の存在は必要ありません。大塚がすでにクズなので、義久を襲わせようとしていたという点で、大塚よりさらにクズがいたなぁとなるぐらいです。

 そもそも尼子家の重臣が次々降伏し、讒言によって追い詰められているような極限状態の中で、何の役にも立たない、保身ばかりを考えているような座頭がまだ家中にいることがすでに違和感ありまくりです。こんなやつよっぽどいい条件で庇護されてでもいない限り、とっとと尼子を見限って逃げていることでしょう。宇山が切腹騒ぎを起こしている時分、正月であるとはいえ、角都は酒を煽ってご機嫌の様子です。兵糧がなく、大身の家臣すら追い込まれているような状況下で随分余裕がありますね。当主の寵愛厚き方は格別な待遇で迎えられているのでしょうね。羨ましい限り。

 冗談はさておき、この描写からしても、座頭角都の存在は違和感だらけということはお分かりいただけたでしょうか。

 次、新宮党誅滅についてです。角都はこのためだけに存在しているようなものですので、中心人物になります。

 角都は国久及び新宮党からは冷酷に扱われていたとされ、その反撃にか晴久に讒言して対抗していたようです。でも、先程も記したように、国久が言っていることって正論なんですよね。新宮党って粗暴な振る舞いが多くて、中井久家ら家臣と対立していたぐらいなのですが、こと角都に関する部分だけは彼らの言い分の方が正しいんですよね…。他は身勝手な振る舞いや横暴エピソードばかりなのに…。

 そして、新宮党が毛利と内通しているという情報を持ち帰った角都のエピソード。これが挿入されているのが、大塚の話の後なので、時系列的に一気に戻るんですよね。時系列順に書いた方が自然なのに。

 そもそも雲陽軍実記って第一次月山富田城戦から一気に永禄年間まで飛ぶので、やたら空白の期間があるんです。かと思いきや、宇山の切腹ら辺は長々と細かい描写まで書いて、著者のさじ加減が露骨なんですよね。宇山飛騨守は尼子家の重臣ですから、細かく描写するのが当然だとでもいうのでしょうか。宇山・大西・本田の密会の場面なんて、当事者じゃないと絶対わからんでしょって思うぐらい丁寧な描写です。

 まぁ宇山飛騨守の切腹についてはまた別記事でまとめるとして、何故この部分だけ異常に詳しく描かれているのでしょうか。そして、何故そのすぐ後に新宮党について書いたのでしょうか。

 私が思うに、大塚と義久、角都と晴久、二者の関係を無理矢理リンクさせようとしたからではないでしょうか。要するに、義久のやらかしエピソードと似たようなことが晴久にもあったのだと言いたいがために、わざわざ座頭角都という人物を創り上げ、新宮党の誅滅に絡めて描いたのではないかということです。

 新宮党滅亡に関して、角都の存在を無視してもう一度構成してみると、晴久及び家臣団は新宮党の横暴な振る舞いに不信感を抱いており、密かに対立していたことが浮き彫りになります。毛利が新宮党と晴久&家臣団の対立関係を利用したのかどうかなんてものは、証拠もないし真偽の程はわかりませんので、ここでは考えないものとします。

 晴久にとって新宮党が目障りなことは想像に難くありません。家臣団との間に軋轢が生じていることからしても、迷惑千万です。晴久が八カ国の守護に任命され、その立場を盤石なものにしようと思えば、新宮党粛清という考えは自然に出てきてもおかしくないのです。

 じゃあ、逆に角都がいることで変わることは何なのか。晴久を愚かな人物として描ける、それぐらいしか思いつきません。

 気に入った者を過度に寵愛し、讒言を簡単に聞き入れ、言われるがままに処分を下す。叔父である国久の叱責も聞き入れず、敵の流した情報を鵜呑みにし、家中最大の武闘派集団を消してしまう。他人の足を引っ張るだけで何の役にも立たない存在を長年にわたって傍に置き続け、後々重臣らの離反に繋がる佞臣の手助けをすることになる。そして、結果的に尼子家滅亡を早めることになった…と。

 座頭角都が存在することで、晴久の印象をこれだけ悪くすることができます。

 雲陽軍実記には晴久を褒めるような描写はまったく存在しません。晴久の功績となるエピソードは徹底的に省き、反対にイメージダウンになるような話は捏造してでも描く。そんな姿勢が見受けられます。

 私には雲陽軍実記には晴久を愚将に仕立て上げたいかのような意図が透けて見えるのです。

 家臣である河本隆政がどうして主君である晴久を愚将にしたかったのか。

 単純に晴久を憎んでいたから、という可能性も否定できませんが、私は河本家の自己正当化のために行ったのだと考えています。

 河本家は竹生島奉加帳では富田衆に含まれています。国人で多くが構成されている出雲衆に対し、富田衆は直臣です。1566年富田城開城の段階で残っている家臣の多くが富田衆です。26家のうち17家が富田城内に残っているということからしても、彼らの忠誠心の高さが窺えます。

 そんな中、裏切った数少ない家のうちの一つが河本家です。もうお分かりでしょうか?

 「自己正当化」というのは、直臣でありながら尼子家を見限り、早々と投降した河本家が、自分達は間違っていないというのを印象づけようと、晴久・義久の両当主を愚将に仕立て上げるために、雲陽軍実記を描いたのではないかということです。

 義久に関してはあまり擁護できないと考えているので置いておくとして、一次資料から想像できる晴久像は決して愚かな人物ではありません。むしろ尼子の最盛期を築き上げた人物と表現してもおかしくないような印象です。もちろん私の贔屓目が入っていないとは言いませんが…。

 主君を悪く書く時点でおかしいはおかしいのですよ。普通、身内贔屓になるものですから。しかも、直属の上司。わざと悪くいうのは理由がないとおかしいです。

 晴久が愚将であれば、こんな愚かな主君だったら裏切っても仕方ないよね、俺たち悪くないよね、に持っていくことができます。雲陽軍実記の狙いはそれだったのではないかと思うのです。だって、他にわざわざ書く理由がないですもん、雲陽軍実記。間違いだらけだし。

 自分達を正当化するために、主君を愚将に仕立て上げるなんて外道極まりないことですが、尼子家は滅亡して、資料も散逸状態、死人に口無しとなれば、自分達の都合のいいように改変ぐらい十分あり得ることですよね。河本隆政が最低ということに変わりありませんけど、家名を守るためにそれぐらいやる人間はいてもおかしくないと思います。

 この結論に関しましては、もう少し情報を集めた上でちゃんとまとめたいので、今回はここでひとまず終了とします。とりあえず言いたいのは座頭角都なんて存在しねーよというそれだけです。おしまい。