カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

中井久家 まとめ

  現時点での中井久家の情報まとめ。何か情報がわかり次第、随時更新します。

 

中井久家(1523~1605年)

  陰徳太平記では久途(ひさみち)との表記もあり。通称は平三兵衛(軍記物語では平蔵兵衛、平蔵表記もあり)。

  伝承では1523年生まれとされる。中井綱家の嫡男。尼子家旧記には中老と記される。

 1540年に父・綱家とともに吉田郡山戦、1559年には石見の小笠原長雄の救援に従軍。

 1549年に尼子誠久によって鬚をむしられる”平三兵衛鬚事件”(後述)が起こる。

 1562年から1565年にかけて白鹿への増援、及び十神山城の守将を務めた。また、1562年に山名摂津守が日野郡にある「本城(亀井山城か?)」を攻めた際、米原綱寛とともに退却したとされている。1565年の第二次月山富田城戦では、父・綱家とともに御子守口の第一陣にて、木原兵部大輔を鉄砲で射ち退かせるといった活躍をした。

  陰徳太平記には、義久たちが降伏した後、杵築まで同行した69人の中に父・綱家とともに久家の名前がある。その後1569年までの動向は不明だが、尼子再興運動の下知に従い、1569年に忠山城へ向かった。1570年 布部山の戦いでは水谷口に陣し、勝間城の戦いに参加した後、秋上庵介親子の心変わりに際して、吉田八郎左衛門とともに逆心ありと疑われ、新山へ呼び出されるも落ちのび、その後千酌港より隠岐国へ渡ったとされる。その際には小浜港の山根彦右衛門を訪ねたともいわれている(『尼子裏面史 続』。尼子家旧記には、但州にて病死したとある。伝承では1605年8月29日に83歳で亡くなったとされる。

 尚、「雲陽軍実記」においては山中鹿介の発言の中で、吉田八郎左衛門とともに成敗されたとあるが、明らかに「尼子家旧記」と矛盾するため、鹿介の虚言か、河本隆政が誤った情報を記述したのだろう。

 

平三兵衛鬚事件

 陰徳太平記には、尼子家最大の武闘派集団、新宮党による数々の横暴な事件があったことが述べられている。特に国久・誠久親子の横暴は尼子家臣団との間に亀裂を生むほどにひどかったとされている。

 その一例として「平三兵衛鬚事件」が挙げられているのだが、その内容というのは以下のようなものである。

 中井平三兵衛こと久家は、大層な髭を生やしており、それを周りの者に日頃自慢していた。それを気に食わないと思った誠久は、ある日久家を屋敷内に呼び出した。そして、おもむろに久家の自慢の鬚をつかむと「なんという無様な鬚の立ち様だ」と、力任せに畳の上へねじ伏せてしまった。しかし、久家もただやられるばかりではなく、刀をぬいて切り伏せようとした。しかし、誠久の早業の前になす術もなく、赤面しその場を退出するほかなかった。

 翌日、晴久の前に出向いた久家は、右頬の鬚だけを残し左側はすべて剃った状態で現れた。それを見た晴久は「その鬚の剃り様は何事だ。気でも違ったか、それとも我を侮辱しているのか」と立腹した。それに対し久家は「実は昨日、式部少輔様(誠久)より見苦しい鬚の立ち様だとお叱りを受けまして、いっそのこと剃り落としてしまおうかとも思ったのですが、我が鬚は殿にもお褒め頂いたものなれば、簡単に剃り落とすわけにもいかず、かといってそのままにするわけにもいかないので、半分は式部少輔様のおっしゃる通りに剃り落とし、もう半分はそのままにした次第です」と答えた。その返答に晴久はしばし目を瞑り、「子細は承知した。もう半分も剃り落としてしまえ」と答えた、というものである。

 晴久に新宮党の横暴を伝えるということに際し、久家は命をかけるほどの覚悟を決めたとして、1549年に長谷寺へ絵馬を奉納したのだと岡崎英雄氏は推察している。よってこの事件も1549年、久家27歳の時の出来事であるとしている。

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 また、他にも新宮党の横暴としては「里田采女・目黒右近を富田城中より擲った事件」、「末次讃岐守の鼻事件」、「熊谷新右衛門下馬事件」、「尼子孫四郎の遺領預け置き問題」など枚挙にいとまがない。久家の鬚事件はこの一例に過ぎないとはいえ、新宮党の身に余る暴挙と、晴久と家臣たちに新宮党粛清を行わせることとなった原因の一端を見せている。

 

 参考資料

  • 岡崎英雄『尼子裏面史』1978年、島根県教科図書販売
  • 岡崎英雄『尼子裏面史 続』1979年、島根県教科図書販売
  • 妹尾豊三郎『尼子物語』1997年ハーベスト出版
  • 妹尾豊三郎『新雲陽軍実記』1997年、ハーベスト出版
  • 長谷川博史『戦国大名尼子氏の研究』2000年、吉川弘文館
  • 米原正義『出雲尼子一族』2015年、吉川弘文館