カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

岐阜関ヶ原古戦場記念館と垂井城

 岐阜県関ヶ原にある「岐阜関ヶ原古戦場記念館」と垂井に行ってきました!

 記念館にはリニューアルされてから初めて行ったのですが、以前とはまったく違っていて、関ヶ原の観光部門が本気を出してきた感がひしひしと伝わってきました。
f:id:Camonambam:20210215130536j:image

 外観からしてかっこいい。記念館の隣にはお土産売り場と食堂が一緒になった建物があって、グッズ選びや休憩、食事にも困らなくなりました。

 ちなみに私がここへ行ったのは、リニューアルされてから初めてだから行ってみたかったというのはもちろんのこと、大谷吉継と平塚為広、湯浅五助の3人が描かれた墨絵を見に行くことが最大の理由でした。

f:id:Camonambam:20210215130601j:image

f:id:Camonambam:20210215130624j:image

 墨絵は入って少ししたところの、チケット販売所の手前に置いてありました。ほぼ等身大サイズぐらいに大きく描かれていて、かなりの迫力。私は一人で来ていたので無理でしたが、絵の前で記念写真を撮っておられる方もいました。

f:id:Camonambam:20210215205216j:imagef:id:Camonambam:20210215130650j:image

 何が嬉しいかって、平塚為広をこんなにしっかりかっこよく描いてくれたことですよ!大谷さんは関ヶ原の武将の中でも特に人気があるので珍しくはないのですが、平塚為広というマイナー武将を大きくかっこよく描いてくれたことが嬉しい。

 為広、めっちゃくちゃイケメン!関ヶ原と垂井のコラボ事業らしいけど、こんなチャンスはそうそうないので見に来た甲斐があった…!眼福過ぎる!

 写真を撮ったはいいけど、本来ここに来るには事前予約が必要だったらしいです。私は全然そのことを知らなかったのですが、普通に当日券で入れてもらえました。でも、1階のシアタールームは予約しないとダメっぽいですね。私は為広目当てで来てたので、別に気にしてませんでしたが。

 シアタールームが見れない場合、2階の展示室に案内されます。2階にはエスカレーターを登って向かいます。
f:id:Camonambam:20210215130743j:image
f:id:Camonambam:20210215130806j:image

 展示室内は写真撮影禁止なので、展示室前の壁だけ撮ってきました。平塚為広と戸田重政の推し二人が並んでいて思わずニヤニヤ。

 展示に平塚・戸田関連のものはなかったけど、十分見応えがありました。鎧とかは模倣品が多かったのですが、関ヶ原図屏風や刀剣、文書など様々なものがありました。

f:id:Camonambam:20210216221711j:image

 ちなみに3階はセミナールームで、私が行った時は館長である小和田先生の講演の録画が流されていました。時間がなかったのでちょっとのぞいただけですが、1時間ぐらいの内容らしいので、時間がある時にまた見れたらいいなぁ。
f:id:Camonambam:20210215130907j:image

 あと、チケットで入れるのは5階の展望フロアです。360°ぐるっとガラス張りの部屋で、関ヶ原を一望できます。
f:id:Camonambam:20210215130918j:image
f:id:Camonambam:20210215130937j:image

 館内は見終わったので、隣接のお土産売り場を物色。目についた為広グッズをいっぱい買ってきました。

 垂井コラボ中だからか、為広グッズ(タオルやクリアファイル)を買ったら竹中半兵衛がプリントされたエコバッグをもらえました。正直裏面でもいいから為広くれよ…と思ったけど、全国的な知名度は半兵衛には遠く及ばないから仕方ない。

f:id:Camonambam:20210216221605j:image

 食堂には関ヶ原の合戦に因んだ定食みたいなものもありましたが、グッズも買ったし食欲もそこまで…だったので、うどん(380円)で昼食を済ませました。定食が1000円越えなのに対し、普通のメニューはすごく良心的なお値段でした(ラーメンとかも500円ぐらい)。

 さて、次の目的地は為広が治めた地である垂井の、タルイピアセンターです。そこでは「垂井と武者たち」という企画展が行われています(1/23〜2/28まで)。平塚為広の居城跡であったとされる垂井城にも行ってみたいと思っていたので、垂井へと向かいます。

f:id:Camonambam:20210215131537j:image

 とはいえ、せっかく関ヶ原に来たので通り道にある史跡はチェックしておきます。まずは東首塚。立派な門が設置してあり、中も整備されていて神社のような感じ。関ヶ原駅から記念館までの道のりにあるけど、前回来た時は門までチェックしてなかったので、少し回ってしっかり見てきました。
f:id:Camonambam:20210215131547j:image
f:id:Camonambam:20210215131558j:image
f:id:Camonambam:20210215131608j:image
f:id:Camonambam:20210215131622j:image
 関ヶ原駅から垂井までJRで行くつもりでしたが、Googleマップで調べると徒歩でも1時間半ぐらいなので歩けなくもないなと思い、歩いて行きました。でも、ぶっちゃけ歩かないで電車で行った方がいいです。しんどいし、時間の無駄なので。私は行くまでに史跡があればいいなって思って行ったのですが、史跡ほとんどないです。車か電車で移動すべきでした。
f:id:Camonambam:20210215131718j:image
f:id:Camonambam:20210215131732j:image
 数少ない史跡の一つがこちら。関ヶ原から少し行ったところにあった、若宮八幡神社です。関ヶ原で焼失したものの、家康によって修復の援助がなされたようです。
f:id:Camonambam:20210215131758j:image

 しばらく行ったところに家康が最初に陣を敷いたところがありました。一際目立つ案内板が設置されているのですぐわかります。
f:id:Camonambam:20210215131808j:image
f:id:Camonambam:20210215131818j:image
f:id:Camonambam:20210215131843j:image
f:id:Camonambam:20210215131858j:image

 関ヶ原の主戦場となった地からはだいぶ距離ありますね。ここからじゃ他の軍は豆粒サイズに見えるだろうなぁ。

 

 そこからさらに何十分と歩いて垂井駅を通り過ぎ、タルイピアセンターを目指します。ちなみに時間がなくて寄れませんでしたが、通り道に池田輝政の墓、春王・安王の墓なんかの史跡もありました。

 しかし、目当ては企画展なので先を急ぎます。

 タルイピアセンターは18時までやっていますが、企画展は17時まででした。結構ギリギリに滑り込みで、何とか閲覧することができました。閲覧は無料です。

f:id:Camonambam:20210216213833j:image

 1室の中に肖像画や鎧などが飾ってある小規模なものでしたが、タルイピアセンター所蔵の「平塚為広の肖像画」を生で見れただけで十分すぎるほどです。

 せっかくなのでお土産も購入。為広の扇子(500円)を買いました。購入ごとに武将カードをもらえるらしく、職員さんが気を遣ってくれたのか、為広のカードをいただきました。扇子自体は厚紙でできていて実用性はあまりなさそうですが、見た目はかなりかっこよく、辞世の句も載っているので、飾る用にいいかもしれません。扇子はあと竹中半兵衛ver.と半兵衛&為広ver.がありました。マスクも売っていたので買いたかったのですが、関ヶ原西軍仕様のマスクを既に買っていたので我慢。また来たときに買おうかな。

f:id:Camonambam:20210216214357j:image

 さてさて、もう日没が近いので、最後のお目当てに向かいます。タルイピアからおおよそ20分ほど歩いた先にあるのが、垂井の泉。

f:id:Camonambam:20210215141841j:image
f:id:Camonambam:20210215141901j:imagef:id:Camonambam:20210215141914j:image

 そして、そこから階段を登った先にある「垂井城」が、平塚為広が1599年から関ヶ原合戦までの間いたとされる城跡です。とはいえ場所も正確にはわかっていないそうなので、とりあえずの居城跡みたいですけどね。
f:id:Camonambam:20210215141925j:image
f:id:Camonambam:20210215141935j:image
f:id:Camonambam:20210215141953j:image
f:id:Camonambam:20210215142005j:image

 お寺の中にさらっとあるので、見逃しやすいかもしれませんが、垂井の泉まで行って、すぐ近くの階段を登った先にあります。

 日が暮れかけてきたので急いで駅に向かうと、8分ほどで到着しました。駅から近くてよかった…。
f:id:Camonambam:20210215142017j:imagef:id:Camonambam:20210215142032j:image
 駅舎内には為広のポスターも貼られていました。ここまで地元に愛されてると嬉しいですね。関ヶ原が隣だからこその猛プッシュかもしれませんが、マイナー武将に光を当ててくれる方々に感謝と敬意を表したいです。

 とりあえず、私の為広への想いと感謝はグッズ購入という形で表現しました。

f:id:Camonambam:20210216220643j:image

 いくら垂井の後押しがあろうとも需要がないとわかれば作ってもらえなくなる可能性もありますからね。これで全部購入できた訳ではないので、これからも購入していきたいです。なので、垂井および関ヶ原の方々は平塚為広グッズ、もっともっと作って下さい。私が何度でも買いに行きますので。何卒よろしくお願いします。

 以上、新年初の史跡巡り終わりー!

尼子晴久の没年について

 本日、2月12日は尼子晴久の誕生日だとされています。そのようなめでたい日に投稿するのが「没年について」というのはいささか不謹慎な気もしないではありませんが、いまだに間違った没年が流布される事例もある以上、やるべきだと思った次第です。

 とはいえ、晴久の没年に関しては『島根県史 八』において永禄三年で間違いないと判明しているんですよね。にも関わらず、まだまだ晴久の没年が永禄五年とする説があるのはどうしてなのか、改めてここで情報を整理してみましょう。

 まず、『島根県史』に書かれている内容をまとめてみます。
 晴久の没年を永禄三年としている資料が以下になります。

  • 佐々木家系伝書
  • 佐々木京極尼子正統霊
  • 尼子家什寶目録
  • 「萩閥」佐々木舎人條
  • 尼子倫久自筆書置


 また、永禄四年とする資料に

 があります。とはいえ1点だけなので、恐らく誤字でしょう。


 では、永禄五年とするものにはどのようなものがあるかというと

  • 雲陽軍実記
  • 出雲私史

 の4点が該当します。

 ちなみに命日は「佐々木系図」の「永禄五年十月十日」を除き、すべて十二月二十四日なので命日は12月24日で確定だと思われます。

 また、さらに晴久が晩年に署名した書類を確認すれば、「永禄三年六月二十八日鞍懸豊勝定香料寄進状に晴久袖判證状」というものが最後になります。
 それ以降の永禄四年からは義久の署名になります。例)雲樹寺課役免状(永禄四年六月二十九日)、安国寺領安堵状(永禄四年九月十五日)、鰐淵寺領安堵状(永禄四年九月十九日)
 上記に挙げたものはいずれも、晴久が存命であれば確実に晴久の署名が必要な書類になります。義久は晴久生前の頃からいくつかの書類に署名する例もありますが(永禄二年四月二十八日義久の日御碕社領安堵状など)、それは晴久の代わりに書いたものや父子で別通証状を同日付で出したものに過ぎないので、晴久の生存を否定する史料とはならないのです。
 このことからも永禄三年6月28日から永禄四年6月29日までの間に晴久が亡くなっているのは確実であるということができます。つまり、晴久は永禄三(1560)年12月24日に亡くなったとみて良いでしょう。

 以上の内容はほぼ『島根県史 八』の要約なので、さらに一歩踏み込んでみましょうか。
 では、永禄五年を唱える資料についてみていきたいと思います。
 とはいえ、「佐々木系図」はそもそも命日を唯一間違えている資料なので信憑性はかなり低いとみて良いでしょう。
 それでは諸軍記物はどうなのか。
 まず、『雲陽軍実記』で晴久の死の場面はどのように描写されているかをみていきましょう。
 晴久が亡くなる場面は「元就元春於厳島鰐淵山調伏法被修事」という章に書かれています。
 まず、場面は永禄五年に本城常光が離反したところから始まります。本城常光が毛利側に暗殺されて大勢の国人が尼子方に寝返ることになったのは怨霊のせいであると吉川元春は主張します。そして、厳島の僧に怨霊を調伏するように頼みます。僧は晴久の藁人形を作り、7日間断食して祈念します。すると7日目に人形の首が落ちて転がっているので、大願成就のしるしだとして喜び、元春にこのことを伝えます。
 元就もまた、国人の心変わりは本城の怨念とみなし、本城の恨みを静め、且つ晴久の一命をもらい受けるよう祈祷を鰐淵寺に頼み込みます。9日間の祈祷を受けた晴久は朝、手水を使おうとしたところ、急に体調を崩し、そのまま帰らぬ人となったというような内容です。
 ツッコミどころは多々あるのですが、まず本城常光が離反したことを怨霊のせいにするという時点で片腹痛いですね。尼子からわざわざ寝返った本城を暗殺するなどという、卑劣な手段を使うような毛利から国人が離反したいと思うのは自然なことでしょう。何を怨霊のせいにしてるんだ、アホか。
 しかも、晴久の藁人形とか、いくら呪いや霊が今よりずっと信じられていたであろう戦国時代の話とはいえ、子供騙しにも程があるでしょう。たった9日間祈った程度で怨敵が死んでくれるなら、誰でも加持祈祷にかまけて戦などしませんよ、馬鹿馬鹿しい。
 そして、亡くなった時期も本城常光の離反と死、さらには大勢の国人が寝返った後に持ってきてるのがいやらしい。『雲陽軍実記』の作者である河本隆政は、尼子の直臣「富田衆」の出です。当主が亡くなるという衝撃的出来事を直臣である人物が忘れるはずがないので、恐らく捏造しようとしたのでしょう。これをすることで、本城常光離反を晴久の所為にできますからね。『雲陽軍実記』には晴久憎しの記述が多々みられるので、没年の操作もその一例だと思われます。

 では、次に『陰徳太平記』はどうかみてみましょう。
 晴久は永禄五年12月23日の夜、急に体調を崩してしまいます。義久や倫久、秀久、御台などは大いに驚いて、医者や祈祷師を呼びますが、回復することなく、24日の朝に遂に息絶えます。
 おかしな点としては御台、つまり晴久の妻が何故かいることですね。晴久の妻である国久の娘は天文二十二年(1553年)に亡くなっているはずです。いたらおかしいんですよね。
 
 さらに『出雲私史』はというと、永禄五年十月に元就が洗合に本営を移し、尼子方が富田にこもっている中で、毛利に与するものが増え、兵力は衰弱、出雲の半国を有するのみになり、その場面で、唐突に晴久は病で亡くなります。
 晴久存命中に第二次月山富田城戦になっているわけですが、色々省かれ過ぎてどこから突っ込めばいいかわかりません。少なくとも、そんなに一気に勢力拡大できるほど世の中甘くはないし、永禄五年に洗合に陣して以来、兵力が衰弱していく中でずっと尼子が粘り続けている方が逆にすごい気がします。

 総じて言えることとしては、いずれもツッコミどころ満載な記述ということですね。このようなそれぞれバラバラな歴史を主張する軍記物が、晴久の没年を永禄五年で統一しているという事実のみで、晴久の没年が永禄五年であると主張されていたというのが、ことの顛末でしょう。尼子の歴史は長らく軍記物に頼らざるを得なかったので、その軍記物が永禄五年だとするならそうなのだろうと、そのまま信じ込んでしまっていたのでしょう。『島根県史』が一次資料をもとに分析したおかげで、それは誤りであると分かったのは画期的な発見であったと言えます。
 恐ろしいのは、永禄五年説を唱える人がいまだに存在することですが、一次資料を分析できない時代ならともかく、詳細に分析した研究が50年以上前に存在している現代でも、まだ存在するのはどういうことなのでしょうか。軍記物の内容を深く分析した人がいないから?軍記物の内容しか知らないで歴史書を書いているから?色々考えられますが、少なくとも『島根県史』を読んでいればそのような発想にはならないと思うのですが…。私にはわかりません。

 ともかく、私としては少しでも晴久について正しい見識が広まってくれることを願うばかりです。
 

長谷寺に奉納された中井久家の絵馬に関して

 8月29日は中井久家の命日だとされています。去年は忙しくしていたのでスルーしてしまいましたが、今年は久家に関する記事を投稿しようと心に決めておりました。
 とはいえ、久家の生涯については以前別記事で書いているので↓
https://camonambam.hatenablog.com/entry/2019/09/06/134138
詳しくは上記の記事を参照してください。
 久家関連でまだやっていないことで、今の自分に書けそうなネタは「長谷寺の絵馬」についてしかないんですよね。まぁ追々、検証してみたいことは色々あるのですが、資料と私の知識が追いついてから書くこととします。

 それでは、前書きが長くなってしまいましたが本題に入りましょう。

 鳥取県倉吉市打吹山の一角に長谷寺という天台宗のお寺があります。ここに奉納された、二額一対の大絵馬が今回の主題になります。
f:id:Camonambam:20200821191229j:plain
f:id:Camonambam:20200821191225j:plain
 長谷寺に現存する大絵馬のうち、最古のものは1531年に奉納された「繋馬図」ですが、次に古い絵馬が中井久家の奉納した「繋白馬図」と「繋黒馬図」の二額です。どちらも天文18年(1549)十月吉日に奉納されたと裏面に記されています。
f:id:Camonambam:20200827095037j:plain
f:id:Camonambam:20200827095109j:plain
 久家の生年が1523年とされているので、久家が27歳の時奉納されたものですね。ちなみに、この絵馬について、郷土史家の岡崎英雄氏が『尼子裏面史』において自身の考えを述べられています。
 自称岡崎英雄氏の弟子としては是非このことについて検証してみたいと思っていたので、このことについて書いていこうと思います。

 岡崎英雄氏の見解を簡潔に述べるとこうです。
 「陰徳太平記」に記載されている、新宮党の横暴の一つ、「中井平三兵衛髭事件」をきっかけに奉納されたものだということです。「平三兵衛髭事件」に関しては上記のブログにまとめてあるので、そちらを参照して頂くとして、そのことを踏まえた上で改めて説明していきます。
 まず、この「平三兵衛髭事件」は陰徳太平記にのみ記載されていることで、雲陽軍実記には「新宮党のことを中井平三兵衛もよく言わなかった」という記述に留まっています。
 そもそもの話、雲陽軍実記は新宮党を誅滅したことを晴久が毛利の策略に嵌まったからだとする、新宮党贔屓の視点で書かれており、晴久や義久を愚将であるかのように印象付けたいような記述が目立つので、「髭事件」を敢えて書かなかった可能性もあり、この件に関しては雲陽軍実記は参考にできません。とはいえ、新宮党が誅滅された後も尼子家の求心力・統率力が衰えていないことから、新宮党と晴久方の家臣団の間に深い溝が生じていただろうことは推測できます。また、新宮党と衝突(というより一方的な暴力ですが…)した者が里田采女、目黒右近など他にもいることから、新宮党に反感を覚える者は少なくなかったのではないかと考えられます。
 少し脱線してしまったかもしれませんが、とりあえず中井久家が尼子誠久によって髭をなじられ、暴力を振るわれたという事件が実際にあったという前提で進めていきたいと思います。
 その「髭事件」が起こったとされている時期は不明ですが、「天文12年に誠久が里田采女、目黒右近を富田城中で広縁より庭上に擲った」という記述があることから、1544年から1553年の間に起こったのではないかと考えられます。
 久家が長谷寺に絵馬を奉納したのが1549年であるので、この期間内ではありますね。
 また、岡崎英雄氏は絵馬を奉納するのは「人生の危機に際して神仏に祈願する」ためであるということを根拠とし、新宮党の横暴を晴久に伝える覚悟を決めるために、大絵馬を奉納したのではないかというように考察しています。新宮党がいくら横暴であろうとも、主君晴久の親族で、家中で武を誇る一大勢力であるという事実は変わりませんからね。重臣の一族とはいえ、一家臣がその暴力性を訴えるには、それこそ命を賭すほどの覚悟が必要になるのでしょう。それ故の絵馬奉納だと岡崎氏は考えている訳ですね。
 以上の点から、岡崎英雄氏は久家の絵馬奉納を「髭事件」という新宮党の横暴を、主君である晴久に伝えるための覚悟を決めるために行なったというように解釈しています。

 しかし、私は「髭事件」と久家の絵馬奉納は直接関係ないのではないかと考えています。当然ですが、髭事件が実際にあったかどうかは私にはわかりませんし、確かめる術もないので、とりあえず陰徳太平記が記す通りに事件があったという前提で考察していきます。
 まず、陰徳太平記においては、誠久によって暴力が振るわれた次の日に晴久に対面していることになっています。大絵馬の製作を、仮に事件があったその日に依頼していたとして、次の日に晴久に会っていたとしたら、確実に奉納する時間なんてできないでしょう。
 大絵馬は二額一対で同日に奉納されています。また、大きさも「繋白馬図」が155.0×185.2㎝、「繋黒馬図」が161.0×190.5㎝と、かなりの大作です。どれだけ偉大な画家であっても、依頼のあったその日のうちに、奉納できるレベルの作品を作り上げるなんて不可能でしょう。また、移動時間も加味するとさらに現実的ではない時間で完成させなくてはいけません。絵馬の願主部分に「雲州住」とあるので、恐らく久家は富田城の周辺にいたであろうと思われます。そんな久家が一日で絵師に絵馬を制作させ、倉吉にある長谷寺まで運び、奉納を完了した後、出雲まで戻ってくるというのはかなり無理があると思います。これを成し遂げるのは現代の技術を持ってしても厳しいでしょう。
 要するに、久家が「髭事件」をきっかけに絵馬を奉納したのだと仮定すると、陰徳太平記の記述のように、事件の翌日に晴久に面会して誠久の横暴を伝えるのは時間的に不可能であると考えざるを得ないのです。
 仮に「髭事件」があってから晴久に面会するまでに、依頼から奉納までを完了させるとするならば、その間に数ヶ月は空いていないといけなくなり、久家に並々ならぬ執念があったことになります。確かに久家の髭は晴久も褒めるもので、本人の自慢でしたから、それを傷つけられたのはそれほどにショックだったのかもしれません。とはいえ、それが事実だとしたら、かなり息の長いチクリだなぁと思ってしまいます。その間に晴久や誠久に会うこともあるでしょうし、誠久に会ったとしたら髭について何かしら言われるでしょうから、やはり現実的ではありませんね。
 もし、晴久の対面後に絵馬を奉納したのだとしたら、覚悟を決めるためという意味はなくなります。
 以上の点から、時系列だけで考えてみても岡崎英雄氏の解釈は成立しないとみていいのではないかという結論に至るのです。
 さらに踏み込むと、大絵馬の奉納理由は岡崎英雄氏の言うように「人生の危機に際して神仏に祈願するもの」ということとは別に存在します。この理由はどちらかというと大絵馬ではなく小絵馬に該当するもので、大絵馬自体には天候良順を祈願するという意味が込められているのです。
 まず、絵馬の起源は神の乗り物である生馬を捧げたことから来ているとされています。そして、絵馬には、個人的な願いや悩みが中心となる吊り下げ型の「小絵馬」と、寺社の絵馬堂や本堂に飾られるような「大絵馬」の二種類があります。
 馬の奉納が天候良順を祈願したものということですが、白馬には雨が止むことを、黒馬には雨が降ることを、それぞれ願うという意味があるそうです。これらを二額一対で奉納するということは適度な降雨や土砂災害を避けるという意味合いがあったのではないかと考えられます。調べていないのでどうかはわかりませんが、この前年に大きな水害や干害があって不作に見舞われていたとしたら、それが大絵馬奉納の理由になると思います。本当はその記録まで調べられれば裏付けられるんですが、まぁそこまでは致しません。時間や資料があればやりたいものですけどね。
 さらに、天文年間には打吹山のすぐ近くにある賀茂神社尼子晴久が再建したという情報も伝わっています。天文年間中に晴久が倉吉まで勢力を拡大し、寺社仏閣に対し保護や支援を行なっていたことがわかりますと、長谷寺への大絵馬奉納も地盤を固めようとする晴久の策略であるという風に考えることができるのです。
f:id:Camonambam:20200827130654j:plain
賀茂神社のパンフレットの社歴部分

 また、中井久家は富田衆という直臣に該当し、晴久は富田衆に奉行としての仕事を多く与えていたとされているので、より一層長谷寺への絵馬奉納が中井久家に与えられた奉行としての業務に過ぎないのではないかと考えられるのです。

 結論、長谷寺の大絵馬の奉納は「鬚事件」とは関わりのない、晴久から久家へ奉行として与えられた一つの仕事ではないかというのが私の意見です。

 多くは倉吉博物館賀発行した『長谷寺の絵馬群』と岡崎英雄氏の『尼子裏面史続』を参考にしました。時系列については自分の考察ですが、そちらについては妹尾豊三郎氏の『尼子物語』や『新雲陽軍実記』を参考にしております。
 鬚事件がいつ起こったのか、また実際にあったことなのかについては白紙に戻りましたが、晴久の堅実さがわかったのでプラマイゼロということにしましょう。
 でも、もしかしたら誠久の横暴への詫びに晴久から久家へ何かを下賜したかもしれないし、何か大きな仕事を任せるというようなことをしたかもしれませんね。その仕事が大絵馬奉納の依頼だという可能性も0ではありませんし。
 それでも、現時点ではわからないことだらけなので、また何かわかれば新たに書きたい所存であります。

中井綱家の魅力

 7月12日は中井綱家の誕生日!
 推しの誕生日とあっては、私もテンションが上がってしまいますね。とはいえ昨年同様、言葉で祝うだけではなんとなく物足りない気がするので、私の考える中井綱家の魅力をお伝えしようかなと思います。
 まぁ歴史学者でもない、ただの歴史好きの一般人が述べる魅力ですので、思いっきり私情が入ります。私感入り乱れの内容となりますので、変なやつが何か言ってるぐらいに思って頂ければ幸いです。

 第一の魅力はやっぱり晴久の守役を務めたことですね。守役って将来的にその若君の重臣になる前提で選ばれる訳ですからね。つまり、信頼できて将来有望な存在であると、経久や政久から思われてたと考えられる訳ですよ。1496年生まれで晴久とは18歳差だから、晴久が生まれてすぐに守役に任命されたとしても20歳前後の青年な訳で、その頃から将来を期待されていたっていうのは凄いことだと思うのです。若い頃から優秀だったと考えられるし、それからの家老就任というのはずっと尼子家からの期待に応え続けてきた実績としても想像できて、綱家が如何に優秀かというのを知る手がかりにもなる訳です。最高ですよね!

  • 家老

 先程も軽く触れた家老についてですが、重要なことなので改めて話しましょう。しかしながら、綱家を明確に家老と記している資料って名将言行録と尼子分限帳の2つだけなんですよ。信憑性がうーんな資料…。とはいえ、雲陽軍実記には13人の家老がいたとされ、その中に綱家が含まれていたかどうかは確証がないものの、宇山飛騨守とともに内通の疑惑を受けた事件からしても、綱家が家老に含まれていない可能性より含まれている可能性の方が高いのは想像に難くない。そして、嫡男である久家が尼子家旧記において中老と記されていることから、綱家が出家して引退した後にその任を引き継いだと仮定しても、綱家が中老以上の立ち位置にいたと考えることができます。
 よって、綱家が家老であった可能性はかなり高いと言える訳ですね。尼子分限帳では87000石と四家老の中では末席ですが、なんて言ったって家老ですからね。晴久が最も頼りにできる存在の一人として認識していたというのは事実なので、もうそれだけで私は幸せです。晴久が幼い頃からずっと頼りにしてきた存在とかヤバい。しかも、宇山飛騨守とともに自分が内通してるかもしれないと疑惑かけられても、出家して富田城に残った訳でしょ?晴久死後も揺るがぬ忠誠心を持ち続けるとか、武士の中の武士だよ…。カッコよすぎ…。
 そして、綱家が投降しようとする者に米を与えて叱咜したエピソードがありますが、筆頭家老であった宇山飛騨守はともかく、この時の綱家は然程富饒ではなかったとされています。そんな中、僅かな米を与えて引き留めようとした綱家は正しく有徳人ですよね。
 しかも、尼子三兄弟の杵築行きまで同行した後は、大山寺経悟院に身を寄せていたのに、いざ尼子再興戦が始まると、久家を参戦させるために、監視の目を引きつける陽動として法勝寺に移ったんですよ。伝承曰く、15名の監視を綱家に常駐させていたらしく、毛利にとってそれだけ脅威だったと考えられるんだけど、これってすごくない⁉︎それに、監視がいなくて年も若ければ、綱家は喜んで再興戦に参戦したんじゃないかな?って思う。ほんとどれだけ尼子家に忠誠を誓うんだよ!久家も父の意向を酌んでか、自身の身に危険が及ぶまで再興運動に尽力したしね。なんという親子だ。あまりにも尊い。他の家老に爪の垢を煎じて飲ませたいよね。私の中では尼子一の忠臣です、この親子は。
 家老というテーマからはズレたけど、その揺るがぬ忠誠心も魅力の一つなのでノープロブレムですね。さて次行きましょう。

  • 人柄

 さて、今までも妄想強目で来ましたが、ここは更に妄想全開の内容になります。
 上記でも言ったように経久や晴久からは信頼されていたと思うので、真面目な性格だとは思います。何より米係という財政を担当する役職についていた訳ですから、いい加減な人物ではないでしょう。多胡辰敬が家訓の中で言っていることですが、「正直な者には蔵を預ける」のが当時としても理想だった訳で、それを踏まえても、綱家は正直で信頼に足る者と考えていいと思います。
 だからといって真面目一辺倒だった訳ではないのが、また魅力なんですよ。綱家署名の書状にこういったものがあります。
f:id:Camonambam:20200712205316j:plain
 永禄二年に書かれたとされるものですが、内容としては陣中にある綱家に出陣前に納めた祈祷料の増額を訴えた使に対する返答になります。これだけじゃわかりにくいので、この文書の岡崎英雄氏の要約を以下に載せます。
f:id:Camonambam:20200712205922j:plain
 駿河守は当然綱家のことですが、使は秋上大炊助の使者ですね。読んで頂ければわかるように、綱家も冗談言ったりするお茶目なところがあるんですよ。まぁ戦中の相手にもっと米よこせという使者を飛ばす、秋上家も大概変だと思わなくもないのですが、当時は神職もしたたかだったということでしょう。それよりも、ユーモアを交えて返信する綱家から見え隠れする大人の余裕にキュンときます。しっかりしつつも、とっつきやすい人柄だったんでしょうね。ただ堅苦しい人ではなく、ちょっと隙を見せるところがずるいなぁ…。
 総合すると、信頼できて、正直で、真面目で、ユーモアもあって、揺るがぬ忠誠心を持つ人物ということですね。完璧超人かな?

  • 晴久との信頼関係

 さて、それでは最後に晴久との関係性について話していこうかと思います。
 守役なので当然、幼少期からの付き合いになる訳ですが、この頃はほとんど情報がないので妄想しかできないんですよね。なので、この時代は私の想像に過ぎないのですが、晴久を語る上で祖父・経久と父・政久の存在は外せませんよね。経久はともかく、政久は晴久が物心つく頃には戦死してしまいます。そんな晴久にとって育ての親である守役は、精神的にかなり支えになる存在だと思うのです。実際、武家の子息は幼少期、守役の屋敷で育ったり、守役が屋敷に住むということがあったと言われています。父を幼い頃に亡くし、叔父や従兄弟とは後々あんなことになってしまう関係だった晴久にとって、綱家はどういう存在だったのか…妄想が止まりませんね。家老にしていることや“久”の字を偏諱として与えていることからしても、絶対に険悪な仲ではなかったでしょう。むしろ晴久から絶大な信頼を得ていると思います。
 絶大な信頼を寄せていることは、新宮党誅滅の際に綱家が国久の討ち手の一人に選ばれたことにも表れています。親戚筋で尼子家の武を担っていた新宮党は、家臣団との間に溝を深めていきます。家中に分断を起こしかねない存在である新宮党を滅ぼすことを決断した晴久ですが、やはり表立って争う訳にもいきません。なので権力者である国久と誠久には、信頼に足る者を討ち手として差し向けます。誠久には大西十兵衛と立原備前守を。国久には本田豊前守と平野又右衛門、三刀屋蔵人、そして綱家を派遣します。いずれも富田城が落城するまで残った忠臣揃いですね。することがすることだけに、余程信頼できる者にしか頼めないことであったと思います。それだけに綱家に対する晴久の信頼が窺えますね。
 この頃のことで言えば、晴久が八ヶ国の守護に補任されたり、修理大夫に任官されていますね。ちなみに綱家が駿河守に叙任されたのも、資料の日付から1551年6月28日〜1554年3月27日までの間とされているので、ほぼ同時期だと考えられます。恐らくこの頃に家臣の編成が行われたのでしょうけど、それでも米係として内政をコツコツ頑張ってきた綱家をきちんと評価したという事実を嬉しく感じます。
 まぁ綱家は晴久が出陣する際は同行しているんですけどね。吉田郡山戦とか1558年の小笠原氏救援とか。戦で活躍したエピソードなんていうのは聞いたことがないものの、重要な戦にはしっかり出陣しています。でも内治派の人間ですから、戦で大活躍とかは想像しづらいんですよね。してたらしてたで、惚れ直しますけど。
 そういえば綱家と晴久の関係とはズレますが、久家との関係も気になりますね。“久”の字は晴久の偏諱を賜ったのかな?親子共々貰ってるなら、相当大事にされてますよね。晴久の衆道相手ともされる米原綱寛は“久”の字与えられてませんからね。中井親子の方が上ということですよ、ふふん。
 久包という別名は軍記物内にしか登場しないので私はあまり使わないんですが、岡崎英雄氏曰く、尼子家内で固有名と併せて名乗ることが許されているのは、数少ない家系のみだそうです。特別扱いですね、ありがとうございます。

 余談ですが、晩年について少し。晩年の綱家は法勝寺にいたと伝えられていますが、法勝寺というと、経久夫人が富田周辺によく似ていると言って、永禄年間に経久寺を建立した場所でもあります。綱家と経久寺との関係は不明ですが、もし身を寄せていたとしたら綱家もまた富田の雰囲気を感じながら過ごしたのかもしれないですね。若き日の自分や晴久と過ごした日々に思いを馳せていたなんて姿も妄想できます。1571年まで記録があるとはいえ、それ以後の動向は不明です。尼子家旧記には「法勝寺で没」とあるので、そのままその地に骨を埋めたのでしょう。久家が吉田八郎左衛門とともに裏切りの疑惑を受け、再興戦から離れたことは知っていたのでしょうか。もし知っていたら失意の中、亡くなったのか…。せめて穏やかな晩年を過ごして欲しいと思います。

 長くはなりましたが、以上で魅力語り終了と致しましょう。7月12日のうちに投稿しようと思ったら、長くなり過ぎて越えてしまいました。反省反省。いやまぁそれだけ魅力的な人物である証拠ですね。綱家最高!

打吹山と長谷寺

 前日の大山に続き、鳥取県倉吉市へ。
 この日は去年からの悲願だった「長谷寺」へ行ってきた!
 長谷寺へ行きたかった理由…それは我が推し、中井久家が奉納した絵馬がここにあるから!存在を知ってから行きたくて行きたくて仕方なかったので、この日行けて最高に幸せになりました。

 倉吉駅からバスが出てるので、それに乗って打吹公園へ。打吹公園自体が元々、打吹城という城だったらしく、公園というよりは低山です。でも、かなり整備されているので、歩くのはへっちゃらです。私はこの日、長谷寺メインで来たので、打吹公園全体をまわったわけではないのですが、ガイドブック曰く、1時間ちょっとあれば公園をぐるっと一周できるようです。私の場合、長谷寺で話に夢中になり過ぎて、時間を押してしまったのがまわれなかった要因です。






 椿の平にはトイレ以外に、倉吉博物館や歴史民俗資料館があります。私が行ったのが祝日の次の日だったのでどちらも閉まってましたが、打吹公園に来たらついでにそちらに行くのもありかと。打吹公園自体、さくらの名所100選、森林浴の森100選日本の都市公園100選に選ばれていたりと、それなりにすごいところなので、自然を求めて気軽にハイキングに行くというのも良さそう。

 それでは、出発!椿の平から遊歩道を通って長谷寺へ行くルートで行きます。

 途中、鎮魂神社があるのでそちらも寄っていく。



 長谷寺まで真っ直ぐ行こうと思っていたけど、勝入寺へ続く分かれ道に来ると、せっかくなので見てみたいという気持ちが勝ってしまい、そちらへ先に行くことに。すぐ着くだろうと思っていたら、かなりの階段があった。迂闊に寄り道すべきではなかったなぁ…。





 勝入寺は池田恒興菩提寺だそう。長久手にある勝入塚(恒興が戦死したとされる場所)は行ったことがあるんだけど、まさかここで繋がるとは…。





 ちなみに、遊歩道から勝入寺へ来る道の途中に「音田喜美野」という方のお墓があった。説明碑もあったのだけど、所々しか読めないしネットで検索しても何の情報も出てこない謎のお方。家紋が四つ目結だったからホイホイされたけど、どういう方なんだろう…昭和時代の人みたいだけど…。わかる人がいれば教えて欲しい、ガチでわからん。





 元のルートに戻ると、越中丸という曲輪の辺りから石仏八十八箇所が始まり、それを横目に長谷寺へ向かうことになる。いつか西国八十八箇所巡りもしてみたい。



 また、その中に一際豪華な石仏があったのだけれど、それは大山寺から譲られたという下山大明神らしい。ここでも大山寺に関わるものを見れて満足。前日行ったからこそ、より感慨深く感じる。


 松尾芭蕉が読んだとされる俳句の石碑を通り過ぎれば、長谷寺到着!一年間ずっとここへ来たいと願った、待ちに待った長谷寺ですよ!そりゃテンションも上がっちゃうよ!





 とりあえず、本堂の周辺をぐるっとまわる。表門に置いてある看板を読むと、来年が1300周年じゃないですか!大山寺の開山1300周年には間に合わなかったし、来年五月にあるという「長谷寺開山1300周年記念祭」には是非行きたい!これを知ることができて良かった。知らなかったら、またスルーしちゃうところだったね。







 そして、本堂ーー!!!説明碑にある絵馬が!久家の奉納したやつ!!これが…これが見たかったんだよ!!
 中は古っぽいけど、柱に貼られたお札のせいでごちゃついて見える。それよりも、厨子や御本尊である十一面観音像はあるけど、いくら探しても絵馬がない…。

 張り紙を見ると「要予約」の文字!しまった…その可能性を失念していた…!ダメ元で当日の参拝を試み、電話すればOKとのこと。よかった〜〜無理なら何のために来たのかと絶望してたよ…。愛知から来た女子一人で参拝希望と言ったら驚かれたけど、それだけ絵馬が見たいという誠意は伝えられたかな。料金は複数で来た方がお得だけど、一人は一人で気楽だからいいんだよ!倍料金だろうが払ったるわい!
 ちなみに庫裡は階段を降りたところにあります。電話しなくても駐車場から行けば普通に庫裡を通る訳なんだけど、私はそんなこと知らなかったんじゃい。予約は張り紙の電話番号からすべきですが、当日でも住職が時間あれば全然いいそうなので、見たい方は手っ取り早く庫裡で直接お願いしましょう。
 ご住職と合流し絵馬堂へ。以前は鍵とかなかったそうですが、落書きや保存の観点から絵馬堂を閉鎖するようになったとか。実際修復されていない柱を見ると、まぁひどい有様ですこと。文化財を何だと思ってんだか…。落書きしたやつ全員にバチが当たればいいのに…。







 そんなことより久家の絵馬ですよ。絵馬堂入ってすぐに「白馬」「黒馬」と並んでた。尚、「黒馬」の標題が間違ってたらしく、両方「白馬」になっていたけれど、そこは温かい目で見守りましょう。
 どちらも1549年に奉納されたもので、長谷寺が所蔵する、現存する大絵馬の中では二番目に古い作品。願主は中井平三兵衛尉久家で、一対で奉納し順調な天候を祈願したものと伝えられている(尚、岡崎英雄氏はこの大絵馬の奉納を新宮党の所業を晴久に伝えるにあたっての覚悟を決めるためと考察している)。
 ちゃんと久家の名前が書かれていて感無量…!二度修繕されたとされているので、あの字も当時のものとは違うんだろうけど、それでも推しが存在した証拠を目の当たりにすれば感動しますよ。ちなみに二度目の修繕をした中井益蔵氏は中井家の末裔です。「黒馬」は元々、灰色で全身塗られていたらしいけど色が落ちちゃってて、ちょっと残念。この二つ合わせて、当時の金額で数百万円ぐらいはするみたいだし、やっぱり中井家がお金持ちだったのは確実と思っていいのかな。晴久から頼まれただけなら、そう考えるのは微妙だけどね。
 お目当てがそれだけだったとはいえ、他の絵馬も興味深かった。大抵は江戸時代以降に奉納されたものだけど、武者絵や巡礼の様子を描いた参詣図など様々なものを見ることができた。

 個人的に気に入ったのは「西国三十三観音霊場図」。写真は撮り忘れたから図録のだけど、西国(近畿地方)の霊場が載ってるガイドマップみたいな作品。見てて楽しいよね、こういうやつ。近畿地方を回転して見た図と思えばわかりますかね。やっぱり昔の地図でも琵琶湖はデカい。

 ちなみに「長谷寺の絵馬群」という図録は1000円で庫裡で買えます。平成23年に行われた展覧会のものらしいです。まだまだ在庫あるらしいので、興味ある方は買ってね⭐︎
 そんなこんなで絵馬堂にあった絵馬を全部説明を聞きながら見ていると、貸し切り状態だった本堂に人が来てた。本堂でお話しを聞いてると滋賀県から来た、これまたご住職の方らしい。ご住職二人の話を聞いてると、やっぱりお寺も色々大変みたいで、御朱印は集めているものの宗教自体に関心が薄い自分が申し訳なくなってくる…。とりあえずお葬式はしっかり挙げるべきだなと思った。

 滋賀から来たというご住職とは長谷寺御朱印を貰って、下におりるまでは一緒に行きました。長谷寺のご住職もだけど、自分の知らないことを知ってる人と話すのって刺激的で楽しい。たまに愛知にも出張で来てるらしいので、また会えるかもしれないね。一期一会とは言うけれど、どこかで繋がれたらよりいっそう嬉しいよね。
 近くにある賀茂神社でも御朱印を貰えるという情報をゲットしたので、このまま賀茂神社にも行く。打吹山の羽衣伝説に由来する井戸もあるらしい。







 ここはかなり綺麗なところだね。社務所も立派だったし、グッズもいっぱいあった。生憎、御朱印しかもらっていないのだけれど。

 御朱印を貰ったら賀茂神社のパンフレットを貰えた。それを読むと「兵火にあったが、天文年間に尼子晴久が再興した」とあった。さすが晴久、まさかここで晴久の文字を見ることができるとは…。こういうことがあるので寄り道はやめられないんだよね。
 しかし、長谷寺で話に花を咲かせ過ぎたため、そろそろタイムアップ。電車の時間に間に合わせないといけないため、これで撤退です。正直、めちゃくちゃ消化不良。まぁ来年も無理矢理にでも時間作って来るつもりだけれど、やっぱり名残惜しい…。

 バス停までの道にあった武家屋敷の看板だけ撮って、この旅は終了。久家の絵馬を見るという目標は達成できたものの、もう少し周辺も探索したかったなぁ。次回来るときは一日たっぷり倉吉観光に費やそう。半日では全然足りないや。
 とはいえ、私が昨年3月頃から来たかった大山寺、長谷寺に行けて心境としては大満足であります。ただし両方とも未練が残っているので、リベンジは絶対やる。とりあえず、それまでは体力作りと勉強に勤しもうかな。

大山寺

  先日、悲願だった大山寺へ行ってきた!

 

 大山寺へは米子駅から出ているバスで行きました。大体50分ぐらいで、終点の大山寺に着きます。f:id:Camonambam:20200224231415j:image

 着いた先にあるのはナショナルパークセンター。シャワーやロッカー、ベンチ、自販機など、登山やウィンタースポーツのための準備や休憩などができる場所です。登山コースごとの地図もおいてあります。私はまだ登山する予定はないんだけど、せっかくなので貰ってきた。ちなみに登山ルートではない地図は観光案内所で貰えます。

 地図をゲットした後は目的を達成しに、大山寺本堂へ。今回の目的は登山でもスキーでもなく、大山寺を訪問することだったのでね。

 御幸参道本通りをまっすぐ登っていく。雪が積もっていて、かなり滑る。雪道対応の靴ではなかったので、何度も転びかけた。こんな有様じゃ登山どころではないな…。

f:id:Camonambam:20200227172051j:image

 通りを歩いていくと、天保時代に作られたお地蔵さんなどもあった。
f:id:Camonambam:20200227172048j:image

 足湯もあったけど、なんと冬季は閉鎖している!足湯が恋しいのも冬ではないのかなぁ…まぁ大人の事情があるんだろうけど。
f:id:Camonambam:20200227172045j:image

 豆腐屋の屋敷跡。かつて数千もの人がいたとされる大山寺だから、豆腐はかなり貴重だったんだろうね。
f:id:Camonambam:20200227172040j:image

 ひたすら真っ直ぐに歩いていくと、ようやく本堂の門が見えてきた。階段ももちろん凍っているので、転ばぬように必死に上る。
f:id:Camonambam:20200227172037j:image
f:id:Camonambam:20200227172026j:image
f:id:Camonambam:20200227172030j:image
f:id:Camonambam:20200227172033j:image

 大山寺に関わる、いくつかの碑もあって、否が応でもテンションが高まっていく。

f:id:Camonambam:20200227173618j:image

 本堂手前にある神社。ここへもお参りしつつ、先へ進む。
f:id:Camonambam:20200227173603j:image
f:id:Camonambam:20200227173606j:image

 先程の神社も登った先から見下ろせる。積もった雪の厚みがすごい。

f:id:Camonambam:20200227173610j:image

 そういえば大山では、かつて日本最大の牛馬市が開かれていたそうな。だから牛とは今も関わりが深いみたいで、それに因んだ銅像も置かれているよ。

f:id:Camonambam:20200227173614j:image
f:id:Camonambam:20200227173622j:image

 そして、ようやくたどり着いた本殿へ。お参りして、幸運の鐘というのも思いっきり鳴らしてきた。

 大山寺と尼子氏との関係は1520年代、経久の時代から確認することができ、1554年には晴久が火災の支援に、三人の息子らと重臣を奉行として派遣している。まぁそんな訳で尼子氏と大山寺にはきちんと繋がりがあるのです。
f:id:Camonambam:20200227173626j:image
f:id:Camonambam:20200227173629j:image

 また、大山寺には、かつて三千人の僧兵がいたとされているのだけど、それに因む史跡がこれ。力自慢の僧兵がこの石で力を競い合ったらしい。私の細腕ではとても持ち上がりそうにないね。何キロぐらいあるんだろう…。

 

 さて、本堂のお参りは済んだけど、せっかくなので時間の限り探索するよ!大山寺本堂のさらに奥へ行くと大神山神社があるので、そちらへ向かう。

f:id:Camonambam:20200227231700j:image

 大神山神社までの参道は、日本一長い石畳の参道とも言われていて、その長さ約700m。ただ、私が行ったタイミングが悪かったため、石畳の部分はほとんど見えませんでした。なんだろう…すごく損した気分…。

 しばらく行くと、金門へと繋がる道にわかれるので、そちらへ行く。

f:id:Camonambam:20200227232357j:image
f:id:Camonambam:20200227232401j:image
f:id:Camonambam:20200227232406j:image
f:id:Camonambam:20200227232410j:image

 開けたところに出ると、そこから賽の河原が見える。金門というのは河原にそびえる巨大な岩壁のことらしい。ここからの景色はまさしく絶景。雪には苦労させられたけど、これを見るためなら多少の回り道は屁でもないね。

f:id:Camonambam:20200228140707j:image

 参道に戻ると御神水が。バッリバリに凍ってました。下の方はかろうじて凍っていなかったけど、さすがにこれは…。

f:id:Camonambam:20200228140949j:image
f:id:Camonambam:20200228140945j:image

 本坊西楽院跡。建物は残っていないので、だだっ広い広場。

f:id:Camonambam:20200228173928j:image
f:id:Camonambam:20200228173924j:image
f:id:Camonambam:20200228173933j:image

 後ろ向き門。名前の通り、移転したときに向きが逆になってしまった門。あーあ、うっかりさんだなぁ…。

f:id:Camonambam:20200228202835j:image
f:id:Camonambam:20200228202838j:image
f:id:Camonambam:20200228202841j:image

 かーらーの、大神山神社奥宮!ここは地蔵菩薩の化身である大智明権現を祀っている。ちなみに、1554年の尼子氏による改修で、晴久の嫡男義久が願主となって御神体を制作したとされているよ!(尚、弟である秀久、倫久は仏像や神輿の制作に関わったとされている)

f:id:Camonambam:20200228203704j:image
f:id:Camonambam:20200228203701j:image

 すぐ近くにある下山神社も尼子氏が関わっているよ!それが関係してなのかはわからないけど、由緒略記には「亀井隠岐守矩賢」の文字が…。尼子氏の重臣亀井氏の末裔だったりするんだろうか…。

f:id:Camonambam:20200228222214j:image
f:id:Camonambam:20200228222220j:image
f:id:Camonambam:20200228222217j:image
f:id:Camonambam:20200228222210j:image
f:id:Camonambam:20200228222207j:image
f:id:Camonambam:20200228222225j:image

 その他にも色々あって、佐々木高綱の頭身地蔵というものもある。尼子だけでなく佐々木氏所縁のものもあるなんて、最高の気分だね。

 お参りが済んだので、御幸参道本通りに戻る。まず、大山自然歴史館へ行って情報集め。

 一階は大山の自然や歴史について、様々なサンプルを用いて説明していて、2階には大山関連の本がたくさん置かれていた。新旧鳥取県史もあったし、尼子関連の本もいくつかあった。ここだけで何時間でもいられそうだけど、それじゃあ時間がもったいないので名残り惜しくも後にする。

f:id:Camonambam:20200229000612j:image

 ここから見える景色も良き。

 

 さてさて、では私が一番行きたかった大山寺経悟院に行こう!…と思ったんだけど…。ガイドマップにも載ってない、観光案内所の人に聞いても存在を知らないなど、さっそく前途多難…!持っていた本に書かれていた情報「旅館街を抜けた辺りにある僧坊跡のひとつ」「大神山神社奥宮の駐車場の南側」などから、観光案内所の方にここじゃないかという場所をなんとか教えてもらう。

f:id:Camonambam:20200229013124j:image

 とりあえずそちらに行ってみたものの、そもそも案内板も存在しないので、頼れるのはガイドブックに載っていた一枚の写真のみ…。それでも僅かな期待を込めて向かったら、雪でわからん。

f:id:Camonambam:20200229013506j:image

f:id:Camonambam:20200229013421j:image
f:id:Camonambam:20200229013424j:image
f:id:Camonambam:20200229013428j:image

 いや…確かにそれっぽい感じはするけど…。雪の所為で何もわからん。今回は私の調べ不足だったと、そう思い撤収しました。これは雪のない季節にリベンジするしかないっすわ。

f:id:Camonambam:20200229014042j:image
f:id:Camonambam:20200229014045j:image
f:id:Camonambam:20200229014050j:image
f:id:Camonambam:20200229014048j:image

 まだまだバスの時間まで余裕があったため、大山寺橋を渡って夏山登山口の方へ。大山寺橋からも絶景が見える。

f:id:Camonambam:20200229014238j:image
f:id:Camonambam:20200229014302j:image
f:id:Camonambam:20200229014305j:image
f:id:Camonambam:20200229014244j:image
f:id:Camonambam:20200229014232j:image

 こちら側には僧坊跡がたくさんある。
f:id:Camonambam:20200229014235j:imagef:id:Camonambam:20200229014848j:image

 洞明院の門にあった模様。これ、吉川氏の瓦と同范だったりしない?ありがちな模様だけど似てる気がする…。前日に講演行って見てたから、余計そう思った。
f:id:Camonambam:20200229014258j:image
f:id:Camonambam:20200229014254j:image
f:id:Camonambam:20200229014308j:image
f:id:Camonambam:20200229014251j:image
f:id:Camonambam:20200229014248j:image

 他にも色々あったけど、水木しげるの妖怪画があるという圓流院は閉鎖されていました。現在、一般拝観中止だそうです。うーん、残念…。

 そうこうしているうちにバスの時間が近づいてきたので、今日のところはこれで終了。すごく楽しかったけど、雪の所為でダメになってしまった部分もあるので、是非次来る時は雪のない時期にしたい。

f:id:Camonambam:20200229015748j:image

 最後に帰りの電車から撮った大山。この日は次の日に向けて移動したので、これでおしまい。次は倉吉だ。

 

多賀大社と彦根城

 遅ればせながら、1月9日に初詣に滋賀の多賀大社へ行って来ました!

 8月に滋賀の尼子へ行った際、駅名に「多賀大社前」があったのを見て以来ずっと行きたかったし、伊邪那美伊邪那岐が祀られている由緒正しい神社でもあるそうなので、新年にふさわしいかなと思って来ました。まぁ本音を言うと、青春18きっぷがあと一回分余っていたので、日帰りで行けて、それなりに近いところに行きたかっただけなんですが、細かいことは気にしない。

 以前のように彦根近江鉄道に乗り換え。本数少なめ、未だにICカードに対応してないなど、色々不便だけど、この不便さが旅行してる感じ出ていいよね。高宮駅まで行ったら、乗り換えて多賀大社前へ。

f:id:Camonambam:20200125204110j:image

駅出た瞬間、鳥居がどーん!とお出迎え。駅名になってるだけあって、降りた人はみんな多賀大社方面に歩いていくみたい。三ヶ日や土日外して良かった…。私は人が多いの嫌いなんだよ。

f:id:Camonambam:20200125204542j:image

 十分も歩けば多賀大社到着。綺麗だし意外と広い。

f:id:Camonambam:20200130005710j:imagef:id:Camonambam:20200130011255j:image
f:id:Camonambam:20200130005726j:image
f:id:Camonambam:20200130005732j:image
f:id:Camonambam:20200130005715j:image
f:id:Camonambam:20200130005719j:image

 色々心惹かれるものがあるけど、まずはお参り。縁結びにも効果があるそうなので、是非お願いしたい。自然に相手を思いやれるような優しい人がいいです。

f:id:Camonambam:20200130010323j:image

 それから御朱印を貰い、多賀大社限定の御朱印帳袋を購入。御朱印は300円で、御朱印帳袋は1000円だった。デザインや色合いも素敵だし、光沢感ある生地で気に入ったので、これで1000円なら安いなと思う。

f:id:Camonambam:20200130011238j:image
f:id:Camonambam:20200130011301j:image
f:id:Camonambam:20200130011234j:image

 お参りは済んだし探索、探索〜。境内にはいくつもお社があって、それぞれ御利益も違うので、自分の願い事にあったところに行くこともできる。私は天満神社と金咲稲荷神社、日向神社に行きました。

f:id:Camonambam:20200130011732j:image

 また、境内には歴史関係のものも多数見受けられた。

f:id:Camonambam:20200130011251j:image
f:id:Camonambam:20200130011245j:image
f:id:Camonambam:20200130012206j:image
f:id:Camonambam:20200130012228j:image
f:id:Camonambam:20200130012237j:image
f:id:Camonambam:20200130012232j:image
f:id:Camonambam:20200130012242j:image
f:id:Camonambam:20200130012215j:image
f:id:Camonambam:20200130012159j:image
f:id:Camonambam:20200130012209j:image
f:id:Camonambam:20200130012246j:image
f:id:Camonambam:20200130012220j:image

 国歌から幕末、徳川家に豊臣家と、あらゆる時代の文化財があるけれど、尼子クラスタとしては県指定文化財の「つり鐘」に反応せざるを得ない。特に後半の「…一二三人の人名が羅列してある。そこには佐々木氏、尼子氏の如き守護級のもの…」ここ重要!!「1555年に鋳造された」なので、晴久の代に多賀大社の修繕に協力したことがわかるわけですよ!さすが晴久。ただ、鐘自体は近くで見ることができませんでした。見たかったなぁ…(´・ω・`)

 

 これで多賀大社は終わりですが、フォロワーさん曰く、すぐ近くに多賀城跡があるらしいので、そちらに行く。

f:id:Camonambam:20200130014534j:image
f:id:Camonambam:20200130014528j:image

 寺やん。しかも奈良時代行基が創設した歴史あるところやん。地図読み間違えたかな?と思ったけど合ってるっぽいね。城域内に寺があったってことか。

 

 まだ時間がある。さぁどうしようか。また尼子館跡行くのもいいんだけど、昨年8月に行ったばかりだし、どうせなら行ってないところ行きたいな…。そういえば彦根城行ってないし彦根城に行こう!城好きのフォロワーさんが以前彦根城オススメしてたし、有名どころはやはりそれだけ行く価値があるんだろうからね。そうとなれば、彦根へ戻るよ!

f:id:Camonambam:20200130015309j:image
f:id:Camonambam:20200130015315j:image
f:id:Camonambam:20200130015319j:image

 彦根駅だー!ひこにゃんかわいい!天使!ひこにゃんは私的ゆるキャラランキングでかなり上位にくる存在なので、やっぱりテンション上がりますね。イラストだと体ちっちゃいのに、着ぐるみになるとでっぷりした胴体になるの尊いなぁ…。

f:id:Camonambam:20200130123507j:image
f:id:Camonambam:20200130123500j:image
f:id:Camonambam:20200130123456j:image

 活動し始めたのが遅かったこともあって、もう15時過ぎになっていたので、急いで彦根城の方へ。彦根城のすぐ近くに護国神社があったので、そちらにも行く。ここは時間がなかったのでお参りだけ。いつも史跡行くと時間がないっていう羽目になるのは、道草大好きなのが原因だろうね。

f:id:Camonambam:20200130123814j:image
f:id:Camonambam:20200130123819j:image
f:id:Camonambam:20200130123825j:image

 すぐにお堀と石垣が見える。何というか、城に来た感が凄い。近代城郭欲張りセットという感じ。我ながらひどい感想だ…。

f:id:Camonambam:20200130124550j:image
f:id:Camonambam:20200130124538j:image
f:id:Camonambam:20200130124544j:image
f:id:Camonambam:20200130124529j:image
f:id:Camonambam:20200130124533j:image

f:id:Camonambam:20200130124906j:image

 券売所から登り石垣、大堀切、鐘の丸と行くと、曇っていた空から夕焼けが。とても綺麗で見惚れていたいところなんだけど、それはつまり時間が迫っている訳でもあるので、のんびりもしていられない。

f:id:Camonambam:20200130125410j:image
f:id:Camonambam:20200130125414j:image
f:id:Camonambam:20200130125405j:image
f:id:Camonambam:20200130125428j:image
f:id:Camonambam:20200130125355j:image
f:id:Camonambam:20200130125423j:image
f:id:Camonambam:20200130125419j:image
f:id:Camonambam:20200130125400j:image

 写真を撮りつつも急ぐ。重要文化財だらけだし、夕焼けは綺麗だけど、閉館時間が決まっているので、ぼーっとしてたら追い出されちゃう。

f:id:Camonambam:20200131154907j:image
f:id:Camonambam:20200131154913j:image
f:id:Camonambam:20200131154919j:image

 そんなこんなで天守閣到着。中に入ると、天守の破風内部へつながる隠し部屋や鉄砲狭間などを見ることができた。ちなみに、ほぼ貸し切り状態でした。でも私の後から入っていく人もいたので、最後ではなかった。中の階段が急で、降りる時背中のリュックがガンガン階段に当たっていたので、あまり大きい荷物だと混んでいる時は迷惑になっていたかもしれない。人いなくて良かった。

f:id:Camonambam:20200131155625j:image
f:id:Camonambam:20200131155616j:image
f:id:Camonambam:20200131155606j:image
f:id:Camonambam:20200131155610j:image
f:id:Camonambam:20200131155619j:image
f:id:Camonambam:20200131155600j:image

 天守閣へ行ったので満足し、周辺を散策。本当は玄宮楽々園へも行けたんだけど、時間ギリギリに入るのは迷惑かと思い諦めました。けど、二季咲桜という珍しいものも見れたので、個人的には満足。とはいえ、消化不良感は否めないので、またいつか彦根に来たい。次回は佐和山城メインで来ようかな。

f:id:Camonambam:20200131160450j:image
f:id:Camonambam:20200131160444j:image

 最後に、堀にいた白鳥。見てたら近くに寄ってきてくれた、かわいい子たち。