カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

長篠

 今日は長篠行ってきた!

 ちょっと寝坊したので、着いたのは昼過ぎになってしまったけど…まぁそんなことを気にしてはいけない。さっそく行くぞ!

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 電車で長篠城駅に行けば、看板がお出迎え。

 まずは情報収集。史跡保存館へ行こう!

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 出入口のところに鬼瓦と強右衛門の磔姿の陶板が。

 目線がある部分にいってしまう…何故そこもしっかり再現するんだ…!

 

 保存館を見終わったら、さっそく周りを探検だ!保存館周辺が長篠城址なので、周りを軽く探索するだけで、結構満足感が得られるよ。

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近くには滝もあるよ。危険だからという理由で近づけなかったから、写真は微妙なのしか撮れなかった…

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 いい天気だからか、平日なのに保存館には人がいたよ。その後行った史跡は一人で独占状態だったけどね。平日の史跡巡りはこれだからやめられない。

 

 では、長篠城周辺は満足したので、武田勝頼本陣コースを出発だ!

 武田勝頼本陣コースは、長篠城址→大通寺→医王寺→蟻塚→馬場信房の墓→長篠城址というルート。

 ちなみに私は馬場信房の墓から鳥居強右衛門コースに向かうルートを進んだよ。

 鳥居強右衛門コースは長篠城址→馬場信房の墓→新昌寺(鳥居強右衛門の墓)→鳥居強右衛門磔死の碑→(牛渕橋)→鳥居駅に向かうルート。私は今回は牛渕橋だけ行ってないんだけどね。時間と体力がなかったんや…

 

 じゃあ、さっそく大通寺の方へ。

 看板が出てるので、それに沿っていけばOK。

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 ここまでは整備された道なので余裕。

 これ以降は軽い登山道になるよ。

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 とはいえ、そこまで距離はないから警戒しなくても大丈夫。10〜20分ぐらい歩くよ。

 

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 途中、こんな看板もあるよ。

 

 そして、辿り着くのが医王寺。ルートがわかりやすいので、道に迷う心配はない。

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 医王寺には見事な蓮池と池があるよ。残念ながら季節じゃなかったから、蓮は咲いてなかったけど、シーズンならきっと綺麗だろうね。

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 で、この医王寺。2階には近現代の民俗資料が展示されていて、そこを見学することもできる。そこもめちゃくちゃ素敵なので、是非見ていって欲しい…!

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 ここまで来たら、次は物見櫓の方へ向かうよ。軽く山を登るけど、親切なことに竹製の杖が置いてある。有り難く、お借りしよう。

 道は整備されているので、そこまでつらくはないよ。

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 頂上は物見櫓がドンと構えているよ。物見櫓は階段があるので、そこから登ることもできる。そこからの景色は絶景だ!かなり急なので気をつけよう。f:id:Camonambam:20190523234526j:image
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 はい、では下山。次は見晴台の方へ向かうよ。こっちも整備された山道を登る。

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 見晴台から左手の方には、先ほどの物見櫓が見える。ここからの景色もいいね。

 

 次は天神山陣地跡へ。またまた山道。

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 そこから、しばらく行くと神社に着く。800年の歴史がある由緒あるところなのだそう。

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 ここから山ではなく道路の方に向かうよ。

 まずは蟻塚。蟻塚って名前は、長篠の戦いの戦死者を埋葬したところに蟻が大量に発生して困った住民が石碑を建てたことに由来するのだそう。

 それで、この蟻塚なんだけど…ここねぇ…厄介なことに薬局の駐車場内にあるんだ…わかりにくいし、ムードが台無しだからやめてほしいんだけど仕方ない…

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 それよりも更にわかりにくいのが、大手門趾。看板とか無しに、この杭だけ置いてある。わかるか!こんなもん!!普通にスルーしたわ!

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はい、じゃあ次は馬場信房の墓へ。わかりにくい場所だけど、看板があるのでそれを頼りに行こう!

 着くと紅葉がお出迎え。花が飾られてるから、地元の人に慕われてるのかな。 

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 ここから鳥居強右衛門コースへ行くよ。普通の道路を歩いて、鳥居強右衛門の墓と碑を探すんだけど、看板が全然無いから、スマホで調べながら行く方がいいかも。

 新昌寺はかなり新しくて綺麗なお寺だよ。強右衛門の墓もすごく整備されていて綺麗な状態だった。

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 ラストは強右衛門の磔死の碑。周りに何もないので、見つけるのは簡単かも。

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 とりあえず、これで見てきたのは全部。

 休憩しまくりながらまわったし、途中道に迷ったので普通より時間はかかったけど、たぶん普通にまわるなら3時間ぐらいでいけるかな。

 

 他にも牛渕橋や鳶ヶ巣山砦とかもあるので、一日中かけてまわるのも楽しいかも。

 長篠の史跡保存館と設楽原の資料館の共通の入場券を買うこともできるので、ここをハシゴするのもいいかもね。

 

 色々な楽しみ方ができる場所なので、オススメだよ!駅からすぐの場所にあるので、アクセスもいいしね!みんな来ようぜ!

 

 

『殉死の構造』オマケ

 そういえば、『殉死の構造』に山中鹿介の子孫について載ってたので、軽く触れておこうかな。

 

 山中又兵衛氏連

 山中鹿介の玄孫。細川光尚の近習、200石をとった。1650年に亡くなった光尚に殉死した。大阪落城後、牢人となっていたが光尚に召し出され、江戸に下った。

 

 山中又左衛門

 又兵衛の父。秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで軍功があり、感状も賜っている。鹿介の子孫ということで、山中に名を復し、山城の内に領地をもらい、のち播磨・河内にも領地をもらった。大阪落城後は牢人し、知行地に退隠しそこで没した。父は大喜多亀之助であり、彼は播磨で牢人をしていた。

 

 

 載っている情報はこれだけ。

 

 私は尼子好きだけど、あまり鹿介に関心がないから、知らなかったけど、子孫は豊臣にいたんだね。

それにしても鹿介の孫が亀之助って名前なのは、やっぱり祖先リスペクトなのかな。山中又兵衛が仕官する時、山中鹿介の子孫だということがプラスに働いてるみたいだしね。十分あり得る。

『殉死の構造』感想と考察

   講談社学術文庫山本博文の『殉死の構造』(2008年)を読んだので、感想と尼子晴久の殉死者について軽く考察を。

 

 内容としては、江戸時代における殉死について、その人物の立場や殉死の理由を見ていくことで、それがどのような意味であったのかを探るというもの。

 森鴎外の『阿部一族』や忠臣蔵、徳川家、伊達家、細川家における殉死者が例に挙げられており、それぞれ殉死者と主君の関係などを明らかにしている。

 元々1993年に出版されたものを復刊したものであるため、原本は江戸時代が中心であったが、エピローグ部分では戦国時代の殉死についても軽く触れている。

 

 

 紹介はこのぐらいで、考察に移るよ!

 考察というか、この殉死を尼子晴久に当てはめてみるとどうなるかって感じだね。

 

 下の写真は尼子晴久の墓に行った時のもの。

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 尼子晴久の墓は月山富田城の麓にあるよ。マップとかで紹介されているのは月山の頂上まで行って下山するルートだけど、整備されていない山道を通る羽目になるから、ここに行きたいだけなら道路側から車で来るのをオススメするよ。

 

 で、この黒い看板の下にあるのが恐らく晴久の墓で、横に並んでるのが殉死した人々の墓だとされている。

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 戦国時代・江戸時代双方とも、主君の死に際して殉死するのは、主君に多大な恩寵があった者か、主君からの寵愛があった者、つまり衆道の関係にあった者だとされているよ。

 

 それを踏まえた上で、晴久の殉死者の墓の数を見てみようか。明らかに10個以上あるね。

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 しかも、この本によると、殉死するのは小姓などの身分が低い者に多く、役職がある者は小指を切って、主君の墓に共に埋葬するということが多かったんだって。

 つまり、かつては主君と衆道の仲であった者でも、役職がある故に殉死をしなかったというケースがあり得るということだね。事実、晴久の寵愛が深かったとされる米原綱寛は殉死してないし。

 

そして、戦国武将の殉死者の数の表が載っていたので、これを参照すると...

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 殉死者が10人以上なのは、衆道のメッカ島津や衆道エピソード満載の伊達政宗等ですね。

 

 さて、以上の点を整理すると

尼子晴久に殉死した者の数は10人以上。これは島津家や伊達政宗など衆道好きとして有名な者に匹敵する

衆道関係にあったとしても、役職がある者は殉死していない(晴久にとっての米原綱寛がその例)→殉死した者以外にも衆道関係にあった者が多数いる?

 

 つまり何が言えるかというと、尼子晴久は相当な男好きだったのではないかということです。

 晴久は正室である国久の娘以外、あまり女性の影がないので、どうなのかなとは思ってたんだけど、これで確信できたね。

 まぁ、晴久の境遇を考えると納得といえば納得。晴久は新宮党やら塩谷興久たち親戚と揉めまくってるからね。衆道には主従の絆を強化するという面があるから、親戚を信頼できない晴久だからこそ、それに頼ろうとしたのかもしれない。現代の感覚からすると奇妙に見えるかもしれないけど、当時では当たり前のことだったわけだしね。

 でも、それ踏まえたとしても、少なくとも10人以上って多いよなぁ…正室も大事にしてたかもしれないけど、女性より男性のが好きだったと考えた方が自然な気がする…

 

 以上、考察終わり!

 こういうの考えるの大好き。今後もこういうのやっていこうかな。

『戦国人名辞典』戸田・平塚関連

  今回は戸田勝隆・勝成兄弟と平塚為広周辺の人。その中でも特に気になる人を中心に。

 

大谷吉継(紀之介、刑部少輔、従四位下)

紀之介と自署のある花押は、刑部少輔とあるものと同じだが、名は◻︎次と読めるだけではっきりしない。流布書には吉隆ともしてある。はじめ秀吉小姓、天正十三(1585)年五万石を与えられ、越前敦賀城主。七月十一日従五位下刑部少輔に叙任、奉行の職についた(秀吉事記・歴名土代)。十四年二月大坂で千人斬り容疑で世人を騒がしたことがある。彼は人体のある部分を必要とする癩患者だという説も(本願寺日記)。十八年小田原に従軍。十一月美濃を検地。文禄元年朝鮮の役に出動、帰朝して三年春伏見城の工事を分担(伊達家文書・当代記、他)。慶長二年九月二十四日秀吉を私亭に招待して饗応し、種々の宝物を進呈して人々を驚かせた(鹿苑日録)。三年秀吉の遺物国行の刀を受領。五年七月加増され十六万石となる(慶長見聞書)。大老協議で増封と思われるが、すぐ大戦乱となったので真相はわからない。彼は賤ヶ岳の戦では7本槍に次ぐ戦功者だった(武家事紀)。三成と仲が良く、三成は彼を信頼していた。また家康とも仲が良く、しばしば訪問したが、宇喜多秀家の家中紛争のとき、榊原康政と調停に奔走して、康政が家康から叱責されたので、急に彼は家康と気まずくなった。しかし家康の会津征伐のときは参加のため、病軀をおして北陸の軍を引き連れ進発したが、中途で三成に誘われた。彼は兵1200人で北国口の防衛に就いた。関ヶ原決戦では駕籠で出動、平塚為広が代わって味方を指揮した。しかし小早川秀秋一派の裏切りで惨敗、悲壮な最期を遂げた。

 

 

津田信成(1562〜1645)

(二郎左衛門、長門守)

盛月の次男、名は高勝とも。秀吉に仕え、天正十二年五月小牧の役には、二重堀を撤退のとき敢闘(武家事紀、他)。十八年小田原の役に従軍(伊達家文書)。文禄元年朝鮮の役に名護屋城に駐屯(太閤記)。二年一万三千石に減知され家を継ぐ、山城三牧城。三年春伏見城の工事を分担。慶長三年秀吉の遺物兼長の刀を受領。五年の戦乱には東軍に属し関ヶ原に会戦、敵の戸田勝成と格闘した。十二(1607)年十二月、京都市中で集団暴行をして改易追放。その節関ヶ原で戸田を斬った織田長孝の功を奪おうとした件も罪状に加えられていたという。正保二(1645)年八月二十日下野足利で死す、八十五(慶長見聞録案紙・当代記・諸家系図纂)。彼は狭箱を考案したという(老人雑話)。

 

 

織田長孝(?〜1606)(河内守、従五位下)

長益の子、名を長一とも。慶長五年関ヶ原の役では父と共に東軍に属し、戸田勝成を斬った。十一年七月五日死す(寛政譜・武家事紀)。

 

 

織田長益(1547〜1621)

(源五、従四位下、侍従、有楽)

信秀の十一男、天正十(1582)年摂津島下郡味舌二千石を安堵される。六月明智の変、光秀の軍が二条城を包囲したとき、彼は城中にいたが、幸運にも無事。秀吉に仕え、晩年剃髪して有楽と号し秀吉に近侍、お咄の衆。慶長三年秀吉の遺物金三十枚を受領。四年十二月八日家康の摂津茨木放鷹のときお咄衆の面々と随従(慶長見聞書、他)。慶長四、五年現在味舌一万五千石(桃山末分限帳)。関ヶ原では東軍に属し、主力戦に参加して敢闘。茶人で利休高足七人の内、元和元年十二月十三日死す、七十五(寛政譜・茶人大系図)。

 

 

尾藤知宣(?〜1590)(十二兵衛、甚右衛門、左衛門尉)

源内の子、名を光房、知定、一也などという。秀吉の藤吉郎時代からの家人。天正元(1573)年九月近江長浜附近で二百五十貫を与えられる。同時に黄母衣衆、ついで大母衣衆。五年十月秀吉が播磨へ移封のとき、同地で五千石に加増(武家事紀)。十二年木下秀定跡但馬豊岡城を与えられる(谷森文書、他)。十二、三年頃播磨高砂二千六百石を加増(大坪文書)。十三年六月四国征伐のとき、阿波木津攻城に参加(土佐物語)。同月讃岐半国四、五万石を充行わる(武家事紀)。十五年九州の役に出陣し、四月日向高城の島津軍が味方宮部継潤の陣へ殺到したとき、赴援しなかったので、七月所領を没収された。放浪のはて、小田原の役のとき、下総古河の路上で秀吉の駕を迎え殺された、十八年七月であった。下野那須の椿事ともいう(川角太閤記)。

 

 

小川祐滋(すけしげ)(左馬助)

祐忠の子、秀吉馬廻、名を忠有とも。茶人で兼々庵と号した(茶人大系図)。慶長三年正月諸将と朝鮮蔚山へ出動を命じられた(多賀文書)。秀吉の死後遺物左文字の刀を受領(太閤記)。関ヶ原のとき父と共に味方を裏切り東軍に加わった(当代記)。しかし賞賜なし、三成と親交があったからともいう。

 

 

小川祐忠(?〜1601)(佐平次、孫一郎、土佐守)

近江神崎郡小川の人、天正十年六月明智方で山崎に会戦、その後柴田勝家に属し、勝家の養子勝豊の家老となる。勝豊が居城長浜を秀吉に囲まれて秀吉方となったので、彼も秀吉方として賤ヶ岳で活躍。勝豊が病死して秀吉に仕え、十二年四月小牧に従軍(浅野家文書・古文書類纂)。十八年伊予府中城七万石。文禄二年朝鮮に出動、五月金海後巻きに参加、伊達政宗と協力して浅野長政父子を救った(駿河志料・武家事紀)。帰朝して伏見城の工事を分担。慶長五年関ヶ原の役には西軍に属し北国口を防衛。九月十五日の会戦では東軍に寝返り、平塚為広を討って功を立てたが賞賜なく改易(真田文書・慶長見聞書)。翌年死す(武徳安民記)。

 

 

ここから私見

 伏見城の工事、大谷吉継と津田信成と小川祐忠と戸田勝成みんな関わってるのか。この4人が関ヶ原以前から関わりあったことはわかったけど、為広はどうなんだろう…『義槍鬼九郎』だと津田信成と平塚為広は義理の親子設定なんだよね。何かしら縁はあったのかな?もう少し津田信成調べないといけないな。

 

六所神社と岡崎公園

 今日は東岡崎の方まで行ったから、岡崎城周辺を散策してきたよ!

 岡崎といえば徳川家康生誕の地。だから家康関連の史跡がかなり集まってるよ。

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 最初に行ったのは六所神社東岡崎駅から南に出て10分も歩けば着く。

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 赤い鳥居がカッコいい。何か既視感があるなと思ったら、日光東照宮に似てるのか。徳川に所以がある場所だしね、関係あるのかも。

 

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 日光は今年の二月に行ってきたよ。雪降ってたけど。思いっきり滑ってコケたけど。でも楽しかった。

 

 

 六所神社の境内は人も少なくて落ち着いた雰囲気。広さもそこまでないけど、雰囲気のある石碑とかはあるよ。

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 国の指定文化財にも登録されているそうな。愛知って「何もない」っていうけど、アピール下手なだけでちゃんと歴史あるじゃんね。こういうの利用してかなきゃダメでしょうに…

 

 

 次は、一旦東岡崎駅方面へ戻って、岡崎公園へ。そこまで距離ないから徒歩でも余裕。

 

岡崎公園内にある管生神社。こちらも歴史あり。でも広くないから、存在感は薄い。

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 さて、駅からすでに天守閣は見えている、岡崎城へ行こう。

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 日曜だし和太鼓のイベントもやってて、尚且つ天気もいいから人が多い。だが、人で賑わうのは良いことだ。過っ疎過疎だと経営が心配になるからね。

 

 実は岡崎城自体は来るの3度目。一度は家族と、二度目は友人と花見に来てた。歴史好きでない人とまわると駆け足でまわらなきゃいけないから、のんびり見るのは初だ。一人旅はいいぞ。

 パンフレット見る限り、岡崎城って案外凄い城らしい。曲輪が日本中でも最も厳しいものだったり、約400m続く日本でも最長クラスの石垣があったり、本丸天守と外側の曲輪が直接つながる日本唯一廊下橋があったりと、日本でも類稀なる特徴を持ってる。

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 やるやん、愛知。アピールしてかないともったいないよ。

 

 家康生誕の地だから、家康アピールはすごいよ。三方ヶ原の戦いの"例"の肖像画の彫刻もある。

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 家康生誕の地関連の史跡はこの辺かな。

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 本当はまだあるんだけど、今日は行けなかったんだ…!だって今日バイトの合間に寄っただけだもの…

 時間と体力があるなら法蔵寺や滝山東照宮、伊賀八幡宮らへんも家康関連だよ。

 

 最後に浄瑠璃姫の墓。岡崎公園から少し出てったところにあるよ。さりげなくあるから見落としやすい。

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 いやいや、今日は満足だ。久しぶりの岡崎もいいね。ちなみに岡崎城は桜も有名だよ。桜祭りは屋台も出て、ライトアップもあるから、夜桜を満喫できるよ。

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 写真は五年前のやつ。

 

 岡崎城はいいよ!徳川好きは是非行くべき!

『戦国人名辞典』戸田家

 じゃあ、次は戸田家!

 といっても徳川に仕えた戸田家ではなく、関ヶ原において西軍について戦った戸田勝成、勝隆達の方ね。徳川に仕えた方の戸田家はスルーで。

 

 戸田勝成(半右衛門、武蔵守)

 名を重政、勝重とも。勝隆の弟。はじめ丹羽長秀、長重に仕え、天正十三(1585)年長秀死後、同家内紛のとき去って秀吉に仕え、越前安居を与えられる。九州、小田原両役に従軍(当代記・伊達家文書)。朝鮮の役に名護屋本営に駐屯(太閤記)。文禄三(1594)年春 伏見城工事を分担、当時一万石。慶長四(1599)年頃一万石を加増され二万石、依然越前安居城(慶長四年諸侯分限帳)。1600年西軍に属し北国口を防衛(真田文書・慶長見聞書)。関ヶ原の会戦では織田有楽の子長孝に討たれた。津田信成が相手ともいう。慶長二年4月22日に彼は家康邸で有楽、信成と一座している(鹿苑日録)。東軍に親友多く、武蔵の戦死を聞くと皆泣いたという(武功雑記・朝野雑載)。

 

 戸田勝隆(三郎四郎、民部少輔、駿河守)

名は氏繁、氏知、政信ともしてあるが、古文書の本人署名には勝隆とある。秀吉古参の臣、天正元(1573)年九月近江長浜の内で二五〇貫文を与えられ、大母衣衆。五(1577)年秀吉が播磨へ移封のとき、十月同国で加増五千石となる(武家事紀)。十(1582)年母衣衆改選のとき黄母衣衆(一豊武功附伝記)。小牧の役に従軍(浅野家文書)。四国征伐のとき阿波木津攻城に参加(土佐物語)。十五(1587)年二月十二日伊予宇和郡板島丸串城七万石(宇和郡徃昔城主記)。十八(1590)年小田原の役には伊豆韮山攻城に参加(伊達家文書)。文禄元(1592)年朝鮮の役に出動。二年五月唐島(巨済島)に滞留して媾和交渉に当り、翌三年帰朝の途十月二十三日病死。無嗣断絶(武家事紀・宇和郡徃昔城主記)。

 

戸田重典(内記)

勝成の子、名を勝典とも。文禄元年名護屋城に宿直(高橋義彦氏所蔵文書)。父と共に関ヶ原で戦死。

 

戸田清左衛門

秀吉馬廻、文禄元年肥前名護屋城の普請を分担(太閤記)。

 

戸田為重(民部少輔)

名を家正とも。勝隆の一族か。文禄・慶長中秀吉から一万石を支給。使番の頭。秀吉直領七万石の代官。慶長四年二月秀吉の葬儀に参列(墨海山筆・武功雑記、他)。関ヶ原のときはみえない。

 

戸田重治(豊前守)

秀吉に仕え一万石。文禄三年七月十七日従五位下豊前守に叙任。豊臣の姓を授けられている。慶長五年関ヶ原の役で没落したらしい(太閤秀吉時代分限帳・慶長三年大名帳・久我家文書口宣案)。

 

 

 戸田家はこれで全部かな。徳川方の戸田家はスルーだからね。

 ここから私見

 勝成が有楽や津田信成と友人ってのは知ってたけど、出典がどこか謎だったからようやくスッキリした。それにしても、東軍の親友って誰だろう…この二人以外にもたくさんいそうだよね。あり得そうなのは蒲生氏郷主催の鍋会で同席してた細川忠興とか前田利長とか?

 勝成があえて活躍しようとしなかったのは、丹羽家への忠誠のためと聞いたことがあるけど、案外兄に対しての遠慮かもしれないね。弟が優秀だと兄は面白くないだろうし、勝隆は短気だというエピソードがあるからねぇ…

 

 とりあえず戸田家はこの辺で。津田信成とか大谷吉継の名前もあるから、その辺はまとめて書くかな。

『戦国人名辞典』平塚家

 まず平塚家から。

 この本には平塚為広と平塚紀八、平塚三郎右衛門、平塚藤右衛門の4人が載ってる。

 

 平塚紀八(ひらつか きはち):秀吉の馬廻、小田原平定後の天正十八(1590)年7月、某所の普請を分担(浅野家文書)

 

 平塚為広(孫九郎、因幡守):秀吉馬廻。文禄元年朝鮮の役に肥前名護屋城に駐屯(太閤記)。四(1595)年7月5000石に加増(佐竹雑記)(石高は書物によって異同あり、慶長四(1599)年諸侯分限帳は3000石、二(1597)年頃太閤御代配分帳は8000石)。慶長三年3月醍醐花見のとき、三丸殿に随従(太閤軍記)。ついで秀吉の遺物金五枚受領。五(1600)年美濃垂井12000石(豊臣大名帳・廃絶録)。関ヶ原の役は西軍に属し、伏見攻城に参加、決戦では大谷吉継に代わって軍を指揮。決戦前日、戸田勝成と小早川秀秋を訪れ、これを斬ろうとしたという。

 

 平塚三郎右衛門(三郎兵衛とも):秀吉に仕え、天正八(1580)年9月19日、播磨賀西郡の内300石を与えられる。子孫は商人に転向、江戸芝伊皿子台町に住し、河村屋重右衛門といった(町方書上・片桐家内書朱印等写・加藤文書)。

 

 平塚藤右衛門(とうえもん):小田原北条氏康の麾下。江戸豊島郡平塚の内、西原二十貫を領した。豊島郡の大部分は太田康資が領していた(小田原衆所領役帳、他)。

 

 多少、年号に西暦足したり、不要な情報は削ったけど、ほぼそのまま写した。

 

 ここから、私見

 平塚って名字だから一応加えたけど、藤右衛門は関係なさそう?紀八と三郎右衛門は為広の血縁の可能性はある。『大谷刑部のすべて』だと三郎兵衛が為広・久賀の父親と書かれてたんだけどね。正直、平塚家はかなり混同されてるから、これだけの情報じゃあ、どこがどう繋がるのかわからんね。

 でも、為広だって言い切れる人物が活躍するのってやっぱり1590年代以降なんだよなぁ…これは私の想像だけど、為広ってやっぱり関ヶ原時で30代とか、比較的若い年代だと考えてもいいんじゃないかな?為広がやたら小説とかで年寄り扱いされてるの凄い違和感なんだよね…確証はまだ無いんだけどさぁ…

 

 平塚家はこれで終了。次は戸田家行くぞ。