カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

『戦国人名辞典』平塚家

 まず平塚家から。

 この本には平塚為広と平塚紀八、平塚三郎右衛門、平塚藤右衛門の4人が載ってる。

 

 平塚紀八(ひらつか きはち):秀吉の馬廻、小田原平定後の天正十八(1590)年7月、某所の普請を分担(浅野家文書)

 

 平塚為広(孫九郎、因幡守):秀吉馬廻。文禄元年朝鮮の役に肥前名護屋城に駐屯(太閤記)。四(1595)年7月5000石に加増(佐竹雑記)(石高は書物によって異同あり、慶長四(1599)年諸侯分限帳は3000石、二(1597)年頃太閤御代配分帳は8000石)。慶長三年3月醍醐花見のとき、三丸殿に随従(太閤軍記)。ついで秀吉の遺物金五枚受領。五(1600)年美濃垂井12000石(豊臣大名帳・廃絶録)。関ヶ原の役は西軍に属し、伏見攻城に参加、決戦では大谷吉継に代わって軍を指揮。決戦前日、戸田勝成と小早川秀秋を訪れ、これを斬ろうとしたという。

 

 平塚三郎右衛門(三郎兵衛とも):秀吉に仕え、天正八(1580)年9月19日、播磨賀西郡の内300石を与えられる。子孫は商人に転向、江戸芝伊皿子台町に住し、河村屋重右衛門といった(町方書上・片桐家内書朱印等写・加藤文書)。

 

 平塚藤右衛門(とうえもん):小田原北条氏康の麾下。江戸豊島郡平塚の内、西原二十貫を領した。豊島郡の大部分は太田康資が領していた(小田原衆所領役帳、他)。

 

 多少、年号に西暦足したり、不要な情報は削ったけど、ほぼそのまま写した。

 

 ここから、私見

 平塚って名字だから一応加えたけど、藤右衛門は関係なさそう?紀八と三郎右衛門は為広の血縁の可能性はある。『大谷刑部のすべて』だと三郎兵衛が為広・久賀の父親と書かれてたんだけどね。正直、平塚家はかなり混同されてるから、これだけの情報じゃあ、どこがどう繋がるのかわからんね。

 でも、為広だって言い切れる人物が活躍するのってやっぱり1590年代以降なんだよなぁ…これは私の想像だけど、為広ってやっぱり関ヶ原時で30代とか、比較的若い年代だと考えてもいいんじゃないかな?為広がやたら小説とかで年寄り扱いされてるの凄い違和感なんだよね…確証はまだ無いんだけどさぁ…

 

 平塚家はこれで終了。次は戸田家行くぞ。