カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

『戦国人名辞典』戸田家

 じゃあ、次は戸田家!

 といっても徳川に仕えた戸田家ではなく、関ヶ原において西軍について戦った戸田勝成、勝隆達の方ね。徳川に仕えた方の戸田家はスルーで。

 

 戸田勝成(半右衛門、武蔵守)

 名を重政、勝重とも。勝隆の弟。はじめ丹羽長秀、長重に仕え、天正十三(1585)年長秀死後、同家内紛のとき去って秀吉に仕え、越前安居を与えられる。九州、小田原両役に従軍(当代記・伊達家文書)。朝鮮の役に名護屋本営に駐屯(太閤記)。文禄三(1594)年春 伏見城工事を分担、当時一万石。慶長四(1599)年頃一万石を加増され二万石、依然越前安居城(慶長四年諸侯分限帳)。1600年西軍に属し北国口を防衛(真田文書・慶長見聞書)。関ヶ原の会戦では織田有楽の子長孝に討たれた。津田信成が相手ともいう。慶長二年4月22日に彼は家康邸で有楽、信成と一座している(鹿苑日録)。東軍に親友多く、武蔵の戦死を聞くと皆泣いたという(武功雑記・朝野雑載)。

 

 戸田勝隆(三郎四郎、民部少輔、駿河守)

名は氏繁、氏知、政信ともしてあるが、古文書の本人署名には勝隆とある。秀吉古参の臣、天正元(1573)年九月近江長浜の内で二五〇貫文を与えられ、大母衣衆。五(1577)年秀吉が播磨へ移封のとき、十月同国で加増五千石となる(武家事紀)。十(1582)年母衣衆改選のとき黄母衣衆(一豊武功附伝記)。小牧の役に従軍(浅野家文書)。四国征伐のとき阿波木津攻城に参加(土佐物語)。十五(1587)年二月十二日伊予宇和郡板島丸串城七万石(宇和郡徃昔城主記)。十八(1590)年小田原の役には伊豆韮山攻城に参加(伊達家文書)。文禄元(1592)年朝鮮の役に出動。二年五月唐島(巨済島)に滞留して媾和交渉に当り、翌三年帰朝の途十月二十三日病死。無嗣断絶(武家事紀・宇和郡徃昔城主記)。

 

戸田重典(内記)

勝成の子、名を勝典とも。文禄元年名護屋城に宿直(高橋義彦氏所蔵文書)。父と共に関ヶ原で戦死。

 

戸田清左衛門

秀吉馬廻、文禄元年肥前名護屋城の普請を分担(太閤記)。

 

戸田為重(民部少輔)

名を家正とも。勝隆の一族か。文禄・慶長中秀吉から一万石を支給。使番の頭。秀吉直領七万石の代官。慶長四年二月秀吉の葬儀に参列(墨海山筆・武功雑記、他)。関ヶ原のときはみえない。

 

戸田重治(豊前守)

秀吉に仕え一万石。文禄三年七月十七日従五位下豊前守に叙任。豊臣の姓を授けられている。慶長五年関ヶ原の役で没落したらしい(太閤秀吉時代分限帳・慶長三年大名帳・久我家文書口宣案)。

 

 

 戸田家はこれで全部かな。徳川方の戸田家はスルーだからね。

 ここから私見

 勝成が有楽や津田信成と友人ってのは知ってたけど、出典がどこか謎だったからようやくスッキリした。それにしても、東軍の親友って誰だろう…この二人以外にもたくさんいそうだよね。あり得そうなのは蒲生氏郷主催の鍋会で同席してた細川忠興とか前田利長とか?

 勝成があえて活躍しようとしなかったのは、丹羽家への忠誠のためと聞いたことがあるけど、案外兄に対しての遠慮かもしれないね。弟が優秀だと兄は面白くないだろうし、勝隆は短気だというエピソードがあるからねぇ…

 

 とりあえず戸田家はこの辺で。津田信成とか大谷吉継の名前もあるから、その辺はまとめて書くかな。