『殉死の構造』オマケ
そういえば、『殉死の構造』に山中鹿介の子孫について載ってたので、軽く触れておこうかな。
山中又兵衛氏連
山中鹿介の玄孫。細川光尚の近習、200石をとった。1650年に亡くなった光尚に殉死した。大阪落城後、牢人となっていたが光尚に召し出され、江戸に下った。
山中又左衛門
又兵衛の父。秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで軍功があり、感状も賜っている。鹿介の子孫ということで、山中に名を復し、山城の内に領地をもらい、のち播磨・河内にも領地をもらった。大阪落城後は牢人し、知行地に退隠しそこで没した。父は大喜多亀之助であり、彼は播磨で牢人をしていた。
載っている情報はこれだけ。
私は尼子好きだけど、あまり鹿介に関心がないから、知らなかったけど、子孫は豊臣にいたんだね。
それにしても鹿介の孫が亀之助って名前なのは、やっぱり祖先リスペクトなのかな。山中又兵衛が仕官する時、山中鹿介の子孫だということがプラスに働いてるみたいだしね。十分あり得る。