『殉死の構造』感想と考察
講談社学術文庫の山本博文の『殉死の構造』(2008年)を読んだので、感想と尼子晴久の殉死者について軽く考察を。
内容としては、江戸時代における殉死について、その人物の立場や殉死の理由を見ていくことで、それがどのような意味であったのかを探るというもの。
森鴎外の『阿部一族』や忠臣蔵、徳川家、伊達家、細川家における殉死者が例に挙げられており、それぞれ殉死者と主君の関係などを明らかにしている。
元々1993年に出版されたものを復刊したものであるため、原本は江戸時代が中心であったが、エピローグ部分では戦国時代の殉死についても軽く触れている。
紹介はこのぐらいで、考察に移るよ!
考察というか、この殉死を尼子晴久に当てはめてみるとどうなるかって感じだね。
下の写真は尼子晴久の墓に行った時のもの。
尼子晴久の墓は月山富田城の麓にあるよ。マップとかで紹介されているのは月山の頂上まで行って下山するルートだけど、整備されていない山道を通る羽目になるから、ここに行きたいだけなら道路側から車で来るのをオススメするよ。
で、この黒い看板の下にあるのが恐らく晴久の墓で、横に並んでるのが殉死した人々の墓だとされている。
戦国時代・江戸時代双方とも、主君の死に際して殉死するのは、主君に多大な恩寵があった者か、主君からの寵愛があった者、つまり衆道の関係にあった者だとされているよ。
それを踏まえた上で、晴久の殉死者の墓の数を見てみようか。明らかに10個以上あるね。
しかも、この本によると、殉死するのは小姓などの身分が低い者に多く、役職がある者は小指を切って、主君の墓に共に埋葬するということが多かったんだって。
つまり、かつては主君と衆道の仲であった者でも、役職がある故に殉死をしなかったというケースがあり得るということだね。事実、晴久の寵愛が深かったとされる米原綱寛は殉死してないし。
そして、戦国武将の殉死者の数の表が載っていたので、これを参照すると...
殉死者が10人以上なのは、衆道のメッカ島津や衆道エピソード満載の伊達政宗等ですね。
さて、以上の点を整理すると
・尼子晴久に殉死した者の数は10人以上。これは島津家や伊達政宗など衆道好きとして有名な者に匹敵する
・衆道関係にあったとしても、役職がある者は殉死していない(晴久にとっての米原綱寛がその例)→殉死した者以外にも衆道関係にあった者が多数いる?
つまり何が言えるかというと、尼子晴久は相当な男好きだったのではないかということです。
晴久は正室である国久の娘以外、あまり女性の影がないので、どうなのかなとは思ってたんだけど、これで確信できたね。
まぁ、晴久の境遇を考えると納得といえば納得。晴久は新宮党やら塩谷興久たち親戚と揉めまくってるからね。衆道には主従の絆を強化するという面があるから、親戚を信頼できない晴久だからこそ、それに頼ろうとしたのかもしれない。現代の感覚からすると奇妙に見えるかもしれないけど、当時では当たり前のことだったわけだしね。
でも、それ踏まえたとしても、少なくとも10人以上って多いよなぁ…正室も大事にしてたかもしれないけど、女性より男性のが好きだったと考えた方が自然な気がする…
以上、考察終わり!
こういうの考えるの大好き。今後もこういうのやっていこうかな。