カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

『戦国人名辞典』戸田・平塚関連

  今回は戸田勝隆・勝成兄弟と平塚為広周辺の人。その中でも特に気になる人を中心に。

 

大谷吉継(紀之介、刑部少輔、従四位下)

紀之介と自署のある花押は、刑部少輔とあるものと同じだが、名は◻︎次と読めるだけではっきりしない。流布書には吉隆ともしてある。はじめ秀吉小姓、天正十三(1585)年五万石を与えられ、越前敦賀城主。七月十一日従五位下刑部少輔に叙任、奉行の職についた(秀吉事記・歴名土代)。十四年二月大坂で千人斬り容疑で世人を騒がしたことがある。彼は人体のある部分を必要とする癩患者だという説も(本願寺日記)。十八年小田原に従軍。十一月美濃を検地。文禄元年朝鮮の役に出動、帰朝して三年春伏見城の工事を分担(伊達家文書・当代記、他)。慶長二年九月二十四日秀吉を私亭に招待して饗応し、種々の宝物を進呈して人々を驚かせた(鹿苑日録)。三年秀吉の遺物国行の刀を受領。五年七月加増され十六万石となる(慶長見聞書)。大老協議で増封と思われるが、すぐ大戦乱となったので真相はわからない。彼は賤ヶ岳の戦では7本槍に次ぐ戦功者だった(武家事紀)。三成と仲が良く、三成は彼を信頼していた。また家康とも仲が良く、しばしば訪問したが、宇喜多秀家の家中紛争のとき、榊原康政と調停に奔走して、康政が家康から叱責されたので、急に彼は家康と気まずくなった。しかし家康の会津征伐のときは参加のため、病軀をおして北陸の軍を引き連れ進発したが、中途で三成に誘われた。彼は兵1200人で北国口の防衛に就いた。関ヶ原決戦では駕籠で出動、平塚為広が代わって味方を指揮した。しかし小早川秀秋一派の裏切りで惨敗、悲壮な最期を遂げた。

 

 

津田信成(1562〜1645)

(二郎左衛門、長門守)

盛月の次男、名は高勝とも。秀吉に仕え、天正十二年五月小牧の役には、二重堀を撤退のとき敢闘(武家事紀、他)。十八年小田原の役に従軍(伊達家文書)。文禄元年朝鮮の役に名護屋城に駐屯(太閤記)。二年一万三千石に減知され家を継ぐ、山城三牧城。三年春伏見城の工事を分担。慶長三年秀吉の遺物兼長の刀を受領。五年の戦乱には東軍に属し関ヶ原に会戦、敵の戸田勝成と格闘した。十二(1607)年十二月、京都市中で集団暴行をして改易追放。その節関ヶ原で戸田を斬った織田長孝の功を奪おうとした件も罪状に加えられていたという。正保二(1645)年八月二十日下野足利で死す、八十五(慶長見聞録案紙・当代記・諸家系図纂)。彼は狭箱を考案したという(老人雑話)。

 

 

織田長孝(?〜1606)(河内守、従五位下)

長益の子、名を長一とも。慶長五年関ヶ原の役では父と共に東軍に属し、戸田勝成を斬った。十一年七月五日死す(寛政譜・武家事紀)。

 

 

織田長益(1547〜1621)

(源五、従四位下、侍従、有楽)

信秀の十一男、天正十(1582)年摂津島下郡味舌二千石を安堵される。六月明智の変、光秀の軍が二条城を包囲したとき、彼は城中にいたが、幸運にも無事。秀吉に仕え、晩年剃髪して有楽と号し秀吉に近侍、お咄の衆。慶長三年秀吉の遺物金三十枚を受領。四年十二月八日家康の摂津茨木放鷹のときお咄衆の面々と随従(慶長見聞書、他)。慶長四、五年現在味舌一万五千石(桃山末分限帳)。関ヶ原では東軍に属し、主力戦に参加して敢闘。茶人で利休高足七人の内、元和元年十二月十三日死す、七十五(寛政譜・茶人大系図)。

 

 

尾藤知宣(?〜1590)(十二兵衛、甚右衛門、左衛門尉)

源内の子、名を光房、知定、一也などという。秀吉の藤吉郎時代からの家人。天正元(1573)年九月近江長浜附近で二百五十貫を与えられる。同時に黄母衣衆、ついで大母衣衆。五年十月秀吉が播磨へ移封のとき、同地で五千石に加増(武家事紀)。十二年木下秀定跡但馬豊岡城を与えられる(谷森文書、他)。十二、三年頃播磨高砂二千六百石を加増(大坪文書)。十三年六月四国征伐のとき、阿波木津攻城に参加(土佐物語)。同月讃岐半国四、五万石を充行わる(武家事紀)。十五年九州の役に出陣し、四月日向高城の島津軍が味方宮部継潤の陣へ殺到したとき、赴援しなかったので、七月所領を没収された。放浪のはて、小田原の役のとき、下総古河の路上で秀吉の駕を迎え殺された、十八年七月であった。下野那須の椿事ともいう(川角太閤記)。

 

 

小川祐滋(すけしげ)(左馬助)

祐忠の子、秀吉馬廻、名を忠有とも。茶人で兼々庵と号した(茶人大系図)。慶長三年正月諸将と朝鮮蔚山へ出動を命じられた(多賀文書)。秀吉の死後遺物左文字の刀を受領(太閤記)。関ヶ原のとき父と共に味方を裏切り東軍に加わった(当代記)。しかし賞賜なし、三成と親交があったからともいう。

 

 

小川祐忠(?〜1601)(佐平次、孫一郎、土佐守)

近江神崎郡小川の人、天正十年六月明智方で山崎に会戦、その後柴田勝家に属し、勝家の養子勝豊の家老となる。勝豊が居城長浜を秀吉に囲まれて秀吉方となったので、彼も秀吉方として賤ヶ岳で活躍。勝豊が病死して秀吉に仕え、十二年四月小牧に従軍(浅野家文書・古文書類纂)。十八年伊予府中城七万石。文禄二年朝鮮に出動、五月金海後巻きに参加、伊達政宗と協力して浅野長政父子を救った(駿河志料・武家事紀)。帰朝して伏見城の工事を分担。慶長五年関ヶ原の役には西軍に属し北国口を防衛。九月十五日の会戦では東軍に寝返り、平塚為広を討って功を立てたが賞賜なく改易(真田文書・慶長見聞書)。翌年死す(武徳安民記)。

 

 

ここから私見

 伏見城の工事、大谷吉継と津田信成と小川祐忠と戸田勝成みんな関わってるのか。この4人が関ヶ原以前から関わりあったことはわかったけど、為広はどうなんだろう…『義槍鬼九郎』だと津田信成と平塚為広は義理の親子設定なんだよね。何かしら縁はあったのかな?もう少し津田信成調べないといけないな。