義久三兄弟の御供衆について
1566年に月山富田城に篭っていた尼子側が毛利に降伏し、義久・倫久・秀久の三人が安芸長田まで連れていかれることになると、杵築までは多くの家臣が随行していったが、それ以降は限られた人数だけしかついていくことを許されなかった。
その面々を以下にまとめると…
義久の御供:宇山右京亮、正覚寺(大塚助五郎)、大西十兵衛、高尾惣五郎、立原備前守、力石兵庫、津野森四郎二郎、福頼四郎右衛門、牧彦右衛門、真野甚四郎、本田豊前守、本田与二郎、本田太郎左衛門
以上、十三名。
倫久の御供:佐藤助三郎(長谷川小二郎)、重蔵坊、多賀勘兵衛、山崎惣左衛門
以上、四名。
秀久の御供:松浦治部丞、松井助右衛門
以上、二名。
また、宇山・立原・本田にはそれぞれ被官した者が二名つけられており、それが…
宇山被官:佐野助四郎、矢田五郎左衛門
立原被官:河上(長谷川)助四郎、小者之聟法
本田被官:中間源右衛門、広江彦三郎
以上、六名となっている。
また、尼子家旧記には降伏時、士分であった114名の没時等の情報が簡潔に述べられており、それをそれぞれに当てはめていくと以下のようになる。
宇山右京亮:芸州志道にて病死
正覚寺(大塚助五郎):記載無し
大西十兵衛:芸州相届 同志道にて生害
高尾惣五郎:中老
立原備前守:芸州志道にて病死
力石兵庫:後安清 奈古にて病死
津野森四郎二郎:後元祝と云
福頼四郎右衛門:芸州届 奈太にて病死
牧彦右衛門:記載無し
真野甚四郎:記載無し
本田豊前守:義久御守。芸州届 長田にて病死
本田与二郎:豊前守の息子。不義により因州病死
本田太郎左衛門:豊前守の弟。雲州にて死
佐藤助三郎(長谷川小二郎):後閑斎と云
重蔵坊:山伏也 岩倉寺之弟子 芸州へ御届被申候
多賀勘兵衛:長州奈子にて病死
山崎惣左衛門:記載無し
松浦治部丞:芸州長田にて病死
松井助右衛門:記載無し
その死について述べられた者は半分の十人だということが判明した。
また、1589年に三兄弟が長田から志道、1600年以後に奈古へ移動したことを考えると、彼らの没年もある程度推測できるのではないだろうか。