カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

福山肥後守 まとめ

 現時点での福山肥後守の情報まとめ。何かわかり次第、随時更新します。

 

福山肥後守綱信

 生年不詳。1565年没。

 息子に福山源五郎がいる。

 元々は吉田筑後守に仕えていたが、筑後守が播磨で討ち死にした後に晴久から領地をもらった。天文年間中に尼子十砦の一つ、安田要害山(長台寺城)の城主となる。

 陰徳太平記、森脇覚書、老翁物語には本城常光が謀殺された際に、福山氏の居城である長台寺城が尼子に復帰した旨が書かれている。また、その後城を明け渡し、富田城へ合流したとされる。

 尚、森脇覚書には「福山と申もの丁台寺より富田へ罷退、其後、法性(勝)寺へ働出候を、地下人として打殺、手計を切、洗合へ持せ申候。」と書かれており、同様のことが老翁物語にも記されている。

 

 1564年、伯耆に攻め入った三村修理亮家親と香川左衛門尉光景に対し、元主君 吉田左京亮の仇である三村家親を討とうと、500人の兵を従え伯耆へ向かった。

 伯耆の日野に着くと、旧知の間柄である四郎太夫と在地の人々の協力を得、三村や香川を追い込むも失敗。続く夜見が浜の合戦では、吉田八郎左衛門とともに300騎を引き連れ、杉原盛重の本陣に攻め入ったが、討ち取ることは叶わなかった。

 大江城にこもっていた吉田源四郎が三村家親・香川光景に攻められると、種上孫兵衛、熊谷又兵衛・小平太、平松大八らとともにこれを迎え、一方を切り抜け源四郎を逃すことに成功した。

 その後、法勝寺に移ったという三村家親を討つべく、平野又右衛門とともに法勝寺へ向かった。収穫した稲を取り運んだり、在家に火をつけまわっていたが、深入りし過ぎたため300人余りの兵に囲まれ、持っていた松明めがけ散々に矢で射られ、討ち取られてしまった。養子の藤三郎は数人を切り伏せた後、自害した。

 以上は陰徳太平記によるものである。

 雲陽軍実記においては、美保関の合戦で杉原盛重が敗走し渚の浜の小高い丘で味方を待っていたところを、吉田八郎左衛門と急襲し杉原を泉山城まで引き返させたとある。

 また、兵糧・援軍の督促のため美作の法勝寺に向かい、そこで生涯を終えたということのみが書かれており、そこで何があったかについては雲陽軍実記には書かれていない。