カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

杵築同行者 陰徳太平記と雲陽軍実記の違い

 尼子義久たち三兄弟が1566年に毛利に降伏した後、杵築に連行されることとなったが、これに同行した家臣の情報が「陰徳太平記」と「雲陽軍実記」で異なっている。その違いは、そもそもの書かれた人数から家臣の顔触れまで及び、「雲陽軍実記」には書かれているが「陰徳太平記」には書かれていない者、また「陰徳太平記」には書かれているが「雲陽軍実記」には書かれていない者、また両方に名がある者の3者に分類することができる。

 本記事では、この件について情報をまとめ、整理することとする。

 

 まず、根本的情報である人数だが、「陰徳太平記」では69人、「雲陽軍実記」は85人となっている。陰徳太平記の方が人数が少ないため、69人が双方に共通の人物で、雲陽軍実記にはさらに16人分多く書かれていると思いがちだが、情報を整理したところ、そうではないとわかった。

 

  • 陰徳太平記にのみ名前があり、雲陽軍実記には名がない者

中井駿河守久包、中井平蔵兵衛、馬木与一

 

  • 雲陽軍実記にのみ名があり、陰徳太平記にはない者

宇山右京亮、大塚助五郎、重蔵坊、正覚寺、大西新四郎、高尾惣五郎、立原備前守、津森四郎次郎、長谷川小次郎、福頼四郎右衛門、馬木甚九郎、真木彦衛門、松井助右衛門、松浦治部丞、真野甚四郎、本田太郎左衛門、本田豊前守、本田与次郎、山崎惣右衛門、力石兵庫介

 

  • 陰徳太平記と雲陽軍実記双方に名がある者

青砥助三郎、秋上伊織介、秋上三郎左衛門綱平、池田助兵衛、池田縫殿允、妹尾十兵衛、卯(宇)山弥太郎、馬田長左衛門、江見九郎太郎、江見平内、大塚弥三郎、大野加(嘉)兵衛、片桐治部丞、加藤彦九郎、河副右京亮、河副三郎左衛門、河副次郎左衛門、河副美作守、岸左馬進、岸孫右衛門、熊谷新右衛門、熊野二(次)郎、熊野兵庫助(介)、黒正勘兵衛久澄、古志因幡守重信、小林甚允、里田右京亮、神西甚允、高尾縫殿助、高尾左馬允、立原源太兵衛久綱、田原右兵衛、月坂助太郎、津森宗兵衛、寺島兵部丞、中井助右衛門、中井与次郎、野津次郎四郎、疋田右衛門尉、疋田甚九郎、日野又五郎、平野加(嘉)兵衛、平野源介、福山内蔵允、福山二(次)郎左衛門、福山弥次郎、馬(真)木宗右衛門、槇山主水正、松田兵部少輔、三刀屋(諏訪部)蔵人、三吉五郎左衛門、三吉甚太郎、目賀田采女允(佐)、目賀田弾(団)右衛門、目黒助次郎、本田平十郎、矢葺右兵衛、山中鹿介幸盛、横道源介高光、横道権允高宗、横道兵庫亮政光、吉田三郎左衛門、吉田八郎左衛門、米原助四郎、渡辺(邊)内蔵助(介)

 

 以上の名前の表記は原則「陰徳太平記」に合わせており、括弧内の表記が「雲陽軍実記」のものとなるようつとめた。

 しかし、情報を整理していく中で、人名表記が異なっている者もいた。明らかに同一人物であると判断できるものもあるが、確定とはいえないため以下にまとめておく。

(雲陽軍実記→陰徳太平記の順である)

  • 田右京亮→田右京亮
  • 黒正兵衛→黒正兵衛
  • 加藤彦郎→加藤彦
  • 平野源兵衛→平野源
  • 岸左馬→岸左馬
  • 三吉甚郎→三吉甚
  • 目黒助郎→目黒助
  • 青砥三郎→青砥三郎

 また、陰徳太平記にのみ名前がある者の中に馬木与一の名があるが、雲陽軍実記にのみ名前がある者の中には馬木甚九真木彦衛門がおり、この人物らの中に同一人物が含まれている可能性も否定できない(雲陽軍実記と陰徳太平記では”真木”と”馬木”は同一扱いと見てもよいからである)。

 そうなれば、中井駿河守久包、中井平蔵兵衛親子のみが「陰徳太平記」に書かれ、「雲陽軍実記」には書かれなかった人物であったということとなる。

 ここで宇山飛騨守惨死事件のことを振り返ると、「雲陽軍実記」では奸臣に嵌められたことを嘆き、身の潔白を表明しようと 飛騨守は腹を切り、中井駿河守が無実であることを証明するのだが、「陰徳太平記」では宇山飛騨守は、立原備前守と矢葺宇兵衛によって登城したところを殺害されており、中井駿河守がどうなったかについては触れていない。恐らくこの辺りが関わってくるのではないだろうか。

 しかし、駿河守が尼子家旧記において中井駿河入道と書かれている以上、出家していることは間違いなく、雲陽軍実記に名がないのも出家しているからだととれば頷けるが、中老でもあり出家していたわけでもない平三兵衛を書かない理由はない。

 どちらにせよ、このことに関してはまだまだ研究・考察の余地があるといえよう。