杵築同行者と尼子三兄弟御供との比較
以前書いた二つの記事「杵築同行者 陰徳太平記と雲陽軍実記の違い」と「義久三兄弟の御供衆について」を見比べていて気付いたことがあったので、それについてまとめてみようと思う。
まず、陰徳太平記と雲陽軍実記の杵築同行者の違いの一つとして、その人数が違うということは以前指摘した通りである(上記の過去記事参照)。
雲陽軍実記には85人と記されており、陰徳太平記には69人しか記されていないというものだが、雲陽軍実記にのみ書かれていて陰徳太平記には名前が書かれていない人物は20人いることがそのまとめで判明した。
そして、尼子三兄弟の御供衆についてまとめた後、この人数と面々を見るとそのほとんどが一致しているということに気づいた。
以下にそのことについてまとめた。左が尼子三兄弟の御供衆で、右が雲陽軍実記にのみ書かれていて陰徳太平記には名前が書かれていない人物である。
宇山右京亮:芸州志道にて病死 | 宇山右京亮 |
正覚寺(大塚助五郎):記載無し | 大塚助五郎 |
大西十兵衛:芸州相届 同志道にて生害 | 大西新四郎 |
重蔵坊:山伏也 岩倉寺之弟子 芸州へ御届被申候 | 重蔵坊 |
高尾惣五郎:中老 | 高尾惣五郎 |
立原備前守:芸州志道にて病死 | 立原備前守 |
津野森四郎二郎:後元祝と云 | 津森四郎次郎 |
佐藤助三郎(長谷川小二郎):後閑斎と云 | 長谷川小次郎 |
福頼四郎右衛門:芸州届 奈太にて病死 | 福頼四郎右衛門 |
多賀勘兵衛:長州奈子にて病死 | 馬木甚九郎 |
牧彦右衛門:記載無し | 真木彦衛門 |
松井助右衛門:記載無し | 松井助右衛門 |
松浦治部丞:芸州長田にて病死 | 松浦治部丞 |
真野甚四郎:記載無し | 真野甚四郎 |
本田太郎左衛門:豊前守の弟。雲州にて死 | 本田太郎左衛門 |
本田豊前守:義久御守。芸州届 長田にて病死 | 本田豊前守 |
本田与二郎:豊前守の息子。不義により因州病死 | 本田与次郎 |
山崎惣左衛門:記載無し | 山崎惣右衛門 |
力石兵庫:後安清 奈古にて病死 | 力石兵庫介 |
「杵築同行者」では20人とあったが、二宮佐渡文書によれば正覚寺と大塚助五郎は同一人物であると記されているので、「尼子三兄弟御供衆」と人数が一致することが判明。また、表にまとめたように、その面々もほぼ同一であるということができよう。
その違いとしては大西十兵衛が大西新四郎と記されていること、また、多賀勘兵衛が真木甚九郎という人物に代わっているというぐらいのものである。
よって以上から次のことが言える。
- 陰徳太平記と雲陽軍実記の杵築同行者の人数の大幅な違いは、陰徳太平記が尼子三兄弟の御供衆を記さなかったことから生じたものである
- 正覚寺と大塚助五郎が同一人物であるということから、雲陽軍実記の杵築同行者の人数も本来は84人である
- 陰徳太平記は雲陽軍実記には記されていなかった、中井綱家・久家や馬木与一を加えており、雲陽軍実記の情報を訂正したのだと考えられる
- 陰徳太平記に記された69人に、尼子三兄弟の御供衆19人を加えた88人が、杵築まで同行した忠臣である
だが、大西十兵衛と大西新四郎、真木甚九郎と多賀勘兵衛が同一人物であるとは限らないため、まだ断言することはできない。
また、馬木(真木、牧)という姓の家臣は尼子家に幾人かいるが、その関係性などは明らかにされていないため、今後も調べていきたいと思う。