カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

「尼子氏分限帳」の信憑性について

 尼子氏分限帳というと、長年、資料としてはいまいち信用できないものだとされているが、これに関して『尼子裏面史』で岡崎英雄氏が思わず「おっ」と思わせる解説をしてたので、軽くまとめてみる。

 

 そもそも、この資料が怪しいとされている原因は、尼子研究における権威である米原正義先生が『風雲の月山城』もしくは『出雲尼子一族』内において、いくつか疑問点を挙げられているからである。

 

 米原先生が尼子分限帳で問題として挙げていたのは以下の4点。

①成立年代(『島根県史』では1541年以前と記載されている)

②尼子下野守の名があること

山中鹿介の存在

④貫文ではなく石高表記であること

 

 これに対し、岡崎英雄氏はそのすべてに答えを出しているので、それを順にまとめていくと…

 

まず ①成立年代

 簡潔に言うと、1541年以前ではなく、晴久の家臣団改変後(1552年頃)に一度作られた分限帳を、義久幽閉後(1566年以後)に立原備前守幸隆や本田豊前守家吉が再編したものであるとしている。

 その根拠として、この文書が当時、梅雪覚書、伝書、富田下城共衆付とともに発見されたことから、毛利氏の義久幽閉監視役であった内藤梅雪の尼子家臣団監視用の参考文書として制作されたのではないかと考察している。

 富田下城共衆付(尼子家旧記)には、尼子滅亡当時の家臣の名前と役職の他に"死亡註"がつけられていることからしても、これは毛利による監視対象の尼子家臣のブラックリストのようなものであり、恐らくそれと分限帳はセットで用いられていたのではないかと述べている。

 

 ここに関連してくるのが、④の石高表記で、毛利家と対照しやすくするために石高表記にしたのではないかとしている。

 

 ②の尼子下野守(久幸)に関しては、本来1541年に戦死しているはずであるが、そもそも武士というのは「元」や「故」という表記を嫌うから、敢えて生きているかのように書いたというのが理由の一つ。

 そして、久幸の遺領播磨の内十万石は、本来久幸の嫡子である孫四郎経貞に与えられるはずのものであったが、1541年時点で経貞が幼かったため国久に預けられており、成長後も経貞が愚昧な人物であったことから晴久も国久も返還しなかったというのをもう一つの理由としている。1552年に元々の分限帳が作られたのであれば、新宮党はまだ存在しており、国久も存命である。そうなれば、本来経貞に与えられるはずの土地を国久が所有しており、晴久も知らんぷりを貫いている状況は都合が悪くなってくる。ならばどうするか。久幸の名を借りれば何も問題にはならない。だからこそ、鹿介と久幸が同時に記録されるという事態が起こってしまったのである。

 

 そして、③鹿介に関しては、山中家の事情と、分限帳が再制作された当時、再興運動が盛り上がりを見せていたことを挙げている。

 山中鹿介は父を1546年に亡くしており、兄甚太郎も病弱であったとされる。1552年頃では、鹿介の生年を1540年としても1545年としても、未だ幼い身であるのは変わらず、元服していたとしても二万石を頂く中老というには、不十分であろう。しかし、そもそも山中家は経久時代からの忠臣であり、当主が病弱あるいは幼いからといって、その土地を没収してしまうのは、尼子家への信頼が揺らぐ行為であり、家臣に対して気を配っていた晴久らしくない。ならば、この表記をどう受け止めるか。1552年頃の初期の分限帳では、鹿介という"個人"としてではなく"山中家"として書かれていたとすれば良いのである。そして再編時は、立原幸隆と本田家吉による尼子家家臣としての見栄や意地というものが、「中老山中鹿介」と書かせたのではないかと考察している。自身らは尼子家再興に協力はできないが、分限帳にしっかりと名を残すことで、彼らへのエールとしたのだろう。

 それに関連し、尼子分限帳には中老のところに立原源太兵衛(久綱)の名があるが、ここは本来幸隆が書かれるべき場所である。しかし、幸隆は編纂者の立場を利用し、弟へのエールを込めて、敢えて久綱の名を書いたのではないかと推測できる。

 これは分限帳に本田豊前守の名が二つあることにも関連する。中老と侍大将に名があるが、本来正しいのは中老であり、侍大将には家吉の弟が元々書かれていたのではないかと考察している。家吉の子と弟は義久に随伴したはずであるが、尼子家旧記を見れば因州や雲州で亡くなったとされているので、見張りを殺害して逃げた可能性も指摘できる。あるいは再興軍に加わっていたかもしれない。どちらにせよ、分限帳に名を記すのは憚られたため、豊前守(家吉)の名を借りたと考えられる。

 以上のことを考慮すると、尼子分限帳は資料としての信憑性を再考すべきであると岡崎氏は述べている。

 

 しかし、私個人としては尼子分限帳にはまだ気になる部分もあり、完全に信頼できる資料かというと疑問がつきまとう。

 岡崎氏は触れていなかったが、陰徳太平記や尼子家旧記には家老、老中と記されている川副美作守久盛が、分限帳においては「侍大将一万石」という扱いであるのはおかしくはないだろうか。その十倍はあって然るべきであろう。

 また、陰徳太平記には13人いたとされる家老が4人になっていることも気にかかる。

 加えて、尼子家旧記では中老と記されている中井平三兵衛久家がどこにも書かれていないのは、どういう訳であろうか。

 久家に関しては再興軍に加わっていることが関係しているのやもしれないが、個人的にはまだ資料としては注意が必要なものであると指摘したい。

 しかし、尼子分限帳が資料として、どのような役割を持っていたかが分かれば、家臣研究の更なる発展が期待できるので、引き続き研究が行われることを望む。