カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

『尼子物語』と『新雲陽軍実記』感想

 しっかりとではないけれども、一応一通りは2冊とも読めた。

 『尼子物語』こと陰徳太平記は、尼子の歴史を最も忠実に表現した本だと言われてるだけあって、わかりやすい。とはいえ、毛利側からの視点なので、多少は警戒すべきなのだろうけど…。

 

 『新雲陽軍実記』はとにかく読みづらい!時系列が結構バラバラなのが気になるし、歴史の大筋が雑な割に、やたらと逸話にページを割いてるから、余計読んでてイライラしてくる。

 何より違和感があるのが、人名や土地名に同音異字が多用されていること。今より500年近く昔の話だし、土地名であれば漢字が変化したという風に受け取ることもできるけど、そうではないよね。正しい人名ならば、公文書を見れば明らかにできるし、地名だって、それで判断できるだろうし。

 そうやって考えると、雲陽軍実記は著者が聞いた噂話をひたすら書き連ねていっただけの本ではないかと思えてくる。耳で聞いたことを書くだけだと、漢字がわからないから、必然的に土地名や人名に使う漢字が本来のものと違ってくる。だから、あれほど同音異字が多いのではないかと思った。

 あと、これは晴久好きな私の個人的印象だけど、やたら晴久のことを悪く言う逸話を持ち出してくるよね。特に本城常光ら辺は、かなり筆が乗ってる気がする…。やっぱり作者の河本隆政って、吉田郡山の戦いで、怪我をして出世の道を絶たれたから、晴久のことをかなり恨んでたんじゃないかな?あと、常光のことも若干憎んでるような印象を受ける。

 その反面、義久のことは結構印象良く書いてるよね。たぶん晴久には若干冷遇されて、義久には気にかけてもらえたとか、そんな裏話とかでもあったんじゃないかな。それぐらい差が酷い。

 晴久はどちらかというと、山中氏や吾郷氏のように、先祖が優れた働きをしたら、その子孫に対しても、優遇したりして感謝を示す方だから、河本隆政って相当晴久に嫌われてたんじゃないの?って思うわ。

 実際、河本家として一括りにしていいかはわからないけど、河本隆任は富田衆における数少ない投降者の一人だからね。そうすると、その親とも考えられる河本隆政も、尼子を見限った裏切り者だということができるしね。正直、気に食わん。こんなやつが書いた文章が尼子の正史だなんて思いたくない。

 尼子に仕えた家臣だとしても、書かれたことが正確だといえる証拠なんてどこにもないんだよね。太田牛一レベルでも無ければ、資料としては不十分だよ。長谷川博史先生みたく、一次資料からその信憑性を見極める必要があるね。

雲陽軍実記と陰徳太平記とか、尼子が好きな理由とか

 とうとう図書館でハーベスト出版の『新雲陽軍実記』と『尼子物語』を借りてきた。

 『尼子物語』は陰徳太平記の尼子氏関連の部分だけを抜き出したもので、『新雲陽軍実記』は言わずもがな、雲陽軍実記の現代語訳。

 尼子家を知る上でなくてはならない2冊ではあるんだけど、私はずっと読みたくないと思ってたんだよね。まぁ、それというのも、ネットの掲示板で、晴久好きは陰徳太平記も雲陽軍実記も地雷というのを見てしまったから。

 やっぱり地雷を好き好んで踏みたいやつなんていないよね。私も今までそう思ってたからこそ、避けてた。

 でもねぇ…晴久とその家臣団について調べたいなら、もう四の五の言ってられないのよ。それに、尼子家の関連資料読んでたら、晴久が悪く言われるのに慣れかけてる自分もいるしね。図書館に入れてあるのも、また運命だと思い、借りてきたさ。

 最終的には、広瀬町歴史シリーズ全巻セットを買うつもりではいるけど、今のところは、まぁこれで…。お金が無いのとやることがいっぱいあって、趣味ばっかり構ってられないんだ。

 

 あと、私は中井家中井家ばっかり言ってるけど、他の人たちもちゃんと好き。立原幸隆・大西十兵衛・本田家吉の3人はよく一緒に行動してるし、仲良かったのかなとか気になる。多胡辰敬は逸話も家訓もカッコよくて大好き。本城常光も強いし、戦国大戦でカッコ可愛くて好きだった。大身でありながら、最後まで尼子家に忠誠を誓ってた川副久盛も好き。地味だけど、田中三郎もいいよね。

 基本、私は尼子家に忠誠を誓い続けてた忠臣が大好きなんだ。

 戦国といえば、自分のために主君を売るような者もいるし、裏切り行為が蔓延してた時代。だからこそ、揺るぎない忠義を持ってた人達に憧れるし、惹かれる。

 尼子家の忠臣といえば、山中鹿介ばかりが注目されるけど、他にも忠臣はいたんだぞって叫びたい。それに、忠誠心あつい武将が数多くいたってことは、逆説的に考えると、それだけその主君が魅力的であるということだ。つまり、尼子晴久は愚将ではなく、多くの武将が命をかけてもいいと思えるほど、魅力的な存在だったのではないかと考えられるわけだよ!だからこそ!私は!晴久とその家臣たちがどれほど強い絆で結ばれていたかを知りたいんだ!!

 義久や勝久についても調べるべきなんだろうけど、この二人に関しては、若くして祭り上げられたから、家臣たちの忠誠は先代のものが多分に含まれるのではと思ってしまうんだよね。要するに、あまり興味が湧かない。まぁ、私は自分の好きなものにしか興味がない人間なので、仕方がないんだ。

 尼子再興の際の家臣らの忠誠心を、経久のおかげにしたがる人もいるけど、それはさすがに無理があると思う。経久の威光がいくらあったとしても、三十年近く空いてたら世代が変わってくるでしょ。少なくとも再興の時代は、晴久の威光もしくは尼子家そのものの威光に違いないと思う。

 考えれば考えるほど、晴久って優秀な人物だったんじゃって思えてくる。そうなるとやっぱり証明したくなるのよ。何か証拠を提示しないと、人の心は動かせないからね。

 だからこそ、私は知りたいって思うし、調べ尽くしたいわけだよ。晴久と忠臣たちについて、ね。

東谷山と白鳥塚古墳

 今日は名古屋の最高峰、東谷山に行ってきたよ!あと、帰り道に少し白鳥塚古墳も寄ってきた。

 この山、何よりも嬉しいのが、高蔵寺駅や中水野駅から行ける場所だということ。だから、バスの時間とか気にせず、気楽に行くことができるよ。

 

 今回は『新 こんなに楽しい愛知の130山』を参考にして、そこに載ってる通りのルートで行ってきたよ。

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 最初は中水野駅で下車。駅にはウォーキングマップもあるので、それを参考にするのもいいかも。

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 駅を出たらひたすら北西へ向かう。途中に尾張戸神社という石碑を発見。でも、周りは完全に民家。これは頂上にある尾張戸神社が場所を移動したとか、そういうことかな?

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 まだまだ北西の方へ進むよ。常夜灯が見えたら、あとは登山口までひたすらまっすぐ。常夜灯の隣には「保食大神」という石碑がある。どういう神なんだろ…。

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 直進の果てに、見えてきたのが登山道!鳥居が目印だよ。

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 登山道はひたすら階段。結構整備されてるので歩きやすい。

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 途中、石段が急になったり、右に曲がったりするけど、ひたすら階段なのは変わらず。

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 頂上へ行く前に、中社古墳が見えてくるので、こっちにも寄ろう。なんと、この古墳、4世紀頃に作られた前方後円墳なのだそう。周りには石を積み上げたものがたくさん見受けられるよ。

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 ここまで来たら頂上まではあとちょっと。相変わらず石段が続くけど、頑張って登ろう。

 そして、石段の果てに見えるは、頂上である、尾張戸神社だ!

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 かなりひらけた場所で、休憩できる机や椅子、バイオトイレがあるよ。景色も最高!

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 展望台もあるよ。そこからの景色もまたいいんだ。

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 もちろん、神社へのお参りもしようね。古墳がそのまま神社になってるらしく、ぐるっと一周まわると、形がわかって楽しいよ。

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 尾張戸神社から、ちょっと行ったところに、3号墳を利用した石組みがあるので、こちらも寄るといいかも。苔むした石って歴史を感じるから、結構好き。f:id:Camonambam:20190606195357j:image
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 頂上にも来たし、ここからは下山。来た道とは別のルートで行くよ。石段ではなく、木の階段を降りていく。山道もキツイけど、階段も単調な道が続くから、飽きてくるのがつらいね。

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 でも、このルート、途中で南社古墳があるんだ。頂上にも行けるし、形を確かめるように、歩くことができるよ。

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 南社古墳を過ぎると、27号墳の石を利用した石組みの看板があるよ。この辺りには古墳がいっぱいあったんだね。

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 そして、しばらく歩けば下山完了。近くには東谷山フルーツパークという施設があるよ。私は行ってないけど、ここに寄るのもありかもね。

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 ここから高蔵寺駅へ向かう途中に、白鳥塚古墳があるよ。整備されて公園のようになってる。

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 白鳥塚古墳は愛知県最古の前方後円墳で、その大きさは115m!それでも愛知県では3番目の大きさ。名前の由来もおしゃれ。

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 この古墳はちゃんと登ることができるよ。階段や整備された道があるので、そこを歩いていこう。

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 前方後円墳の円の部分には石英で作られたサークルがある。元々、発掘当初から石英が敷き詰められていたのだそう。

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 せっかくの前方後円墳だから、その形がわかるように写真を撮りたかったんだけど、結構難しいね。横から見ると円の部分の方が高くなってるのがわかる。

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 次は、少しだけ駅へのルートから逸れて、東谷山白鳥古墳へ。

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 如何にも!な外見がいいね。造られた当初の石室が現存してる、市内唯一の古墳だそうで、貴重なもの。
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 中に入ることはできないけど、ドアの穴から中をのぞいたり、音声の説明を聞くことができるよ。奥行きが7mぐらいあって、石壁のさらに奥へ、亡くなった方の遺体を入れて、また塞ぐ、ということを繰り返していたそうな。
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 ここ以外にも古墳はあるんだけど、今日はここまで。

 名古屋で気楽な登山ができて、古墳も堪能できるので、ちょっとしたハイキングに是非。

『尼子氏の城郭と合戦』高守山城

『尼子氏の城郭と合戦』という本が、2018年に出ていたことをつい先日知ったので、さっそく買ってきました。

 まだパラパラ流し読みしただけなので、読み込めてはいないんだけど、ちょっと気になるところがあったので、まとめようかなと。

 

 本自体は、第一部で簡単な尼子氏の歴史と城郭の特徴を述べ、二部以降でそれぞれの城郭の地形図や高さ、難易度、城郭に関わる歴史について述べているという形式。

 

  それで、気になるところというのが、高守山城のページ。

 私の尼子家における最大の推しが中井綱家・久家親子なんですが、高守山城は久家が居城としていた城とされているんですね。(尼子十砦のパンフレット情報)

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 だからこそ何よりも先に読んだんだけど、中井平三兵衛久家の名前は一文字も出てこない。

 まぁ、もうマイナー好きとしては?存在を忘れられるなんて慣れっこですから?それは別に構わんと。そう思ったんですね。(パンフレットの情報だし、どこまで信用できるかわからんしね。)

 

 問題は中井久家の名がないことではなく、歴史の説明文の中にあったんですよ。

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 それがこれ。注目して欲しいのは、「1560年に城将・立原備前守幸隆が討ち死にした」という部分。尼子家の歴史に多少詳しい方であれば、「ん?」と思うのではないでしょうか。

 知らない方向けに説明すると、立原幸隆は、尼子再興の際、山中鹿介とともに毛利と戦った立原久綱の兄。幸隆は晴久の元で奉行として活躍し、義久の代でも最後まで尼子家に忠誠を尽くし、本田家吉や大西高由らとともに、安芸長田まで義久三兄弟に随行したとされている。

 勘の良い方は気づいて頂けたでしょう。立原幸隆が1560年に亡くなったとするなら、毛利に降伏した後(1566年)、義久達に随行した立原備前守幸隆って誰やねんと。

 明らかにこの本やらかしてる。ただの誤植なら誤植で済むんだけど、そうでないなら、この本全体の信憑性が気にかかってくるよね。

 この本、裏表紙でもやらかしてるから、ただの誤植だといいんだけどね。

景虎→○高虎)

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 著者の寺井毅氏は城郭研究の方だから、歴史には元々詳しくはないのかもしれない。

 参考にする際は多少注意が必要かもしれないけど、載ってる城郭は81種と多いので、「尼子関連の史跡巡りがしたい!」という方にはガイドブックみたいに使えると思うので、オススメ。

長久手古戦場

 過去にTwitterで公開したやつだけど、見辛いと思うので、こちらにもまとめます。

 4月上旬に花見目的で行ったので、桜が満開の時のやつです。

 

 じゃあ、さっそくいきますか。

 リニモの「長久手古戦場」駅から出てすぐに、長久手の合戦の説明と家紋が書かれたモニュメントが見えてくる。結構オシャレ。一つ一つ違ってて、簡単な説明も小さく書かれてるので、ここも注目してみよう。


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 そして駅から5分も歩けば、古戦場公園に着けるよ!

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 古戦場公園内の桜はこんな感じ。

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 ここの公園内には長久手市郷土資料室があるよ。でも、ここは6月から休館して新館を作るんだって。新館が完成するのは令和4年度になるそうな。

 ここで、パンフレットを入手して、場所とルートを確認。

 長久手古戦場公園武蔵塚→血の池公園→長久手城趾→御旗山→岩作城址→色金山→安昌寺→首塚→教圓寺のルートで行ったよ。一応、これで主要な史跡は押さえてるけど、さらに木下勘解由塚や堀久太郎秀政本陣地跡を訪れるのが、全制覇ルートね。

 一応、参考までに…

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 ここ、長久手古戦場公園には勝入塚と庄九郎塚があるよ。池田恒興とその嫡男元助のお墓だね。仏ヶ根の決戦で恒興は永井伝八郎に、元助は安藤直次に討たれたとされている。

 二つは少し離れて、公園内の片隅にひっそりと建ってる。この辺りだけ静謐な雰囲気。

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 公園から出て、しばらく歩いて武蔵塚の方へ。武蔵塚は恒興の娘婿、森長可(通称「鬼武蔵」)の墓。ここも桜が綺麗。鬼武蔵もこの桜に少しは癒されてたりするのかな。

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 この武蔵塚には「傷や汚れをつけないで!」という注意書きが貼ってある。鬼武蔵の眠るところを荒らすなんて、とんだ勇者だな。いるのかな、そんなやつ…

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 武蔵塚の次は血の池公園へ。名前から物騒だけど、これは鬼武蔵のヒャッハーが原因ではなく、徳川方の武将が血のついた武器を洗った池があったことから来てるらしい。

 中は普通の公園。桜も綺麗だよ。

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 そこからちょっと行くと長久手城趾。ここはちょっとした広場ぐらいの広さ。

ここの城主加藤太郎右衛門忠景は長久手の合戦の際、岩崎城に来ていて、そこで戦死したのだそう。岩崎城主丹羽氏次の姉が妻だったことに起因してるらしい。

 墓にはまだ新しい花が供えられていて、地元に愛されているのがわかる。

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 そこからしばらく歩くと、次は御旗山。山というよりかは神社。階段を2階分ぐらい登れば頂上に行けるレベル。

 家康が頂上に金扇の馬標を立てたとされている。

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 さて、ここからはしばらく歩くよ。20分ぐらいかな。ひたすら北西へ向かう。

 すると見えるのが岩作城址。ここは市役所の前に石碑があるだけ。

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 さぁ、次だ。本当は石作神社も行ったけど、人がいたので写真は撮ってない。岩作城址から色金山までの通り道なので、是非ここも立ち寄ってみて下さい。

 

 そして、この史跡ルートのメインの一つ「色金山」へ!

 中は広めの公園みたいな感じ。茶室もあって休憩もできるよ。自然がいっぱいで、展望テラスからの景色は絶景。

 ここには家康が軍馬に水を飲ませたという池があったらしい。

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 ここまで来たら後は駅に戻るだけなので、見逃した史跡を巡ろう。

 色金山のすぐ近くには安昌寺が。ここは、合戦後に戦死者を手厚く供養したという雲山和尚という方がいたのだそう。

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 はい、次は「首塚」。雲山和尚が戦死者の屍を集めて塚を築き、手厚く葬った跡と言われている。

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 で、最後になるのが「教圓寺」。家康がここで戦勝祈願したのだそう。

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 これで主要な史跡ルートは制覇。木下勘解由塚と堀久太郎秀政本陣地跡はかなり離れてるので、体力ある方か、もしくは車で行くのが正解かな。

 

 ほぼ街中を歩いてまわることになるので、歴史へのトリップ感は薄いけど、豊臣(織田)・徳川好きは楽しめると思う。どこも桜が綺麗なので、花見にも是非ご検討を。

このブログをやっていくにあたって

 私がなぜ、尼子と平塚・戸田という関わりもなければ、時代も武家も全然違うふたつを愛でてるのかというと、単純に好きだからというのと、彼らに対する私の疑問や知識欲に答えてくれるような本や研究者の方がいないからなんだよね。

 尼子家は地元に愛されてるし、研究書もそれなりに存在するんだけど、雲陽軍実記や陰徳太平記という軍記物語が、尼子家の歴史の大部分を占めているから、その歴史の信憑性となると、うーんって思えてしまう…。そんな現状を打破すべく長谷川博史先生が一次資料中心に尼子家の研究をされたんだけど、家臣のこととなると、まだまだわからないことだらけ。

 私が知りたいのは尼子晴久時代の家臣についてだから、まだこの分野は空白が多い部分だといえる。それならいっそ誰かが調べてくれるのを待つよりも、私が調べた方が早くない?というのが、今の私の心境なんだよね。

 平塚・戸田もそう。誰もやってくれないから、それなら私がやればいいかって思ってしまっただけ。

 

 尼子裏面史の作者であり、郷土史家であられる岡崎英雄氏は、中井家の末裔として生まれたものの、当時の研究では中井家について全然判明していないという事実に業を煮やして、自身で中井家の歴史を調べたと述べている。そして、『尼子裏面史.続』の中で、そういう歴史の空白部分を埋めるのは、権威や立場がある研究者や学者よりも、歴史好きの馬鹿共がやればいいとも言っている。

 実際、歴史の大局を調べるのは学者や研究者の方でないといけないと私も思う。でも、歴史においてそれほど比重が高くない人物の研究であれば、権威も立場もない、自由で好き勝手にやれる素人の方がかえっていいのではないかと思う。

 なら、私もその歴史馬鹿の一人として、少しずつでもいい、調べてみるかと思った次第。

 とはいえ、私は戦国に関してはただ趣味で愛でてるだけの素人。漢文すら十分に読めやしない。まだまだ岡崎英雄氏のような、米原正義先生という戦国研究の権威からも一目置かれた存在には程遠い。

 それでも何かしたい!なら、今自分にできることから発信していこうと思い、このブログを始めた、というのが現状。

 

 だから、好きなものがバラバラなのも許して頂きたい。ただただ好きなものに対して実直なだけなので…。好きになったら「知りたい!」「少しでも近づきたい!」というのが、止まらない人なんだ。

 大学で資料の向き合い方とか資料の収集方法とか知ってしまったからね。元々好きなものに対する情熱が、常人より強いもので、止まらないんだよ…。もう楽しくて楽しくて仕方がない。

 まぁ、そんな変な奴のブログなので、至らぬ点も多いと思いますが、ダラダラ見守って頂ければ幸いです。

 

 でも、ブログのいい点としては、タグで分類できるし、題名でどんな内容かある程度わかるところだよね。興味なければ見なきゃいい!ができる。ツイッターだと嫌でもタイムラインに流れてくるからね。それがないって大きいよ。好き勝手書けるからね。文字数制限無いし、写真も貼り放題だし。

 今はブログ始めて良かったと心から思えるよ。もっと早くに始めるべきだったかも。

中井綱家 まとめ

 中井綱家についての現時点での情報まとめ(随時更新します)

 

 

中井綱家(久包)(1496-没年不詳)

  1496年7月12日生誕。秋上文書寄進状内に「生年丙辰歳七月十二日誕生是也」との記載あり。

 中井家清の子か。通称は助右衛門(助左衛門・助衛門表記もあり)、官名は駿河守。軍記物においては“久包”と表記され、“久”の字は晴久からの偏諱である。

 尼子晴久の傅役をつとめ(尼子家旧記)、1552年には駿河守に叙任される。若年の頃より米係を任せられ、第二次月山富田城攻めにおいては、自身の蔵に糠を入れた米俵を積み、城内の者に「まだ我が蔵には米があるから耐えよ」と鼓舞した。宇山飛騨守讒死事件では、宇山飛騨守とともに疑惑を受けたが、飛騨守の死により疑惑が晴れ、その後、入道したとされる(『尼子裏面史』)。

 「尼子氏分限帳」において、美作に87000石を与えられたとされ、尼子家四家老の末席を務めている。

 塩冶氏滅亡後、朝山郷の「東分一円後代官職」を務めていたとされる(元亀二年三月十一日尼子勝久袖判奉行人連署奉書)。

 また、1540年の吉田郡山戦、1558年の晴久挙兵の際には、嫡男・久家とともに従軍。1554年の新宮党壊滅の際には、尼子国久の討手の一人となった。1565年の月山富田城総攻撃時は、御子守口を防衛。富田城開城後は杵築まで義久に同行した(陰徳太平記)。その後は大山寺教悟院に隠棲したが、その際には毛利から15名ほどの監視をつけられた。1569年に久家が再興軍へ加わるのに先立ち、監視への陽動として法勝寺に移った(『尼子裏面史』)。「尼子家旧記」によると、法勝寺にて病死したとされる。

 

 〈寄進・出納記録〉

・1540年 竹生島奉加帳

・1551年6月 晴久社参御供 米三俵を出納

・同年12月 中井助右衛門として寄進(岩屋寺仁王堂勧進帳

・1553年 神門郡の知行地を寄進

・1555年 晴久神魂社参供 米十五俵を出納

・1557年 坪内備州出雲大社灯田寄進を安堵

・1559年7月 伊弉諾供 米三俵五十疋を出納

・同年7月 伊弉諾両社へ「六俵壱〆二百文御供」返報

・1560年 伊弉諾両神へ「大庭保之内宮ノ前七百文地利」寄進

 

〈参考文献〉