中井綱家 まとめ
中井綱家についての現時点での情報まとめ(随時更新します)
中井綱家(久包)(1496-没年不詳)
1496年7月12日生誕。秋上文書寄進状内に「生年丙辰歳七月十二日誕生是也」との記載あり。
中井家清の子か。通称は助右衛門(助左衛門・助衛門表記もあり)、官名は駿河守。軍記物においては“久包”と表記され、“久”の字は晴久からの偏諱である。
尼子晴久の傅役をつとめ(尼子家旧記)、1552年には駿河守に叙任される。若年の頃より米係を任せられ、第二次月山富田城攻めにおいては、自身の蔵に糠を入れた米俵を積み、城内の者に「まだ我が蔵には米があるから耐えよ」と鼓舞した。宇山飛騨守讒死事件では、宇山飛騨守とともに疑惑を受けたが、飛騨守の死により疑惑が晴れ、その後、入道したとされる(『尼子裏面史』)。
「尼子氏分限帳」において、美作に87000石を与えられたとされ、尼子家四家老の末席を務めている。
塩冶氏滅亡後、朝山郷の「東分一円後代官職」を務めていたとされる(元亀二年三月十一日尼子勝久袖判奉行人連署奉書)。
また、1540年の吉田郡山戦、1558年の晴久挙兵の際には、嫡男・久家とともに従軍。1554年の新宮党壊滅の際には、尼子国久の討手の一人となった。1565年の月山富田城総攻撃時は、御子守口を防衛。富田城開城後は杵築まで義久に同行した(陰徳太平記)。その後は大山寺教悟院に隠棲したが、その際には毛利から15名ほどの監視をつけられた。1569年に久家が再興軍へ加わるのに先立ち、監視への陽動として法勝寺に移った(『尼子裏面史』)。「尼子家旧記」によると、法勝寺にて病死したとされる。
〈寄進・出納記録〉
・1540年 竹生島奉加帳
・1551年6月 晴久社参御供 米三俵を出納
・1553年 神門郡の知行地を寄進
・1555年 晴久神魂社参供 米十五俵を出納
・1557年 坪内備州出雲大社灯田寄進を安堵
・1559年7月 伊弉諾供 米三俵五十疋を出納
・同年7月 伊弉諾両社へ「六俵壱〆二百文御供」返報
・1560年 伊弉諾両神へ「大庭保之内宮ノ前七百文地利」寄進
〈参考文献〉