吉田八郎左衛門 まとめ
現時点での吉田八郎左衛門の情報まとめ。何かわかり次第、随時更新します。
吉田八郎左衛門義金
直景、久隆とも。兄弟に吉田筑後守、左京亮、三郎左衛門がいる。嫡男は四郎次郎。
生年不詳。没年は1570年もしくは1571年。
第二次月山富田城戦においては、弟三郎左衛門とともに尼子家に大恩があるからと、幼年である甥 源四郎を洗合に降伏させた(陰徳太平記)。
1563年の白鹿城救援に際しては、弟三郎左衛門と後陣として従軍。美保関の合戦では杉原盛重が敗走してきたところを福山肥後守とともに急襲、泉山城まで引き返させた。しかし、続く泉山城攻めでは杉原の抵抗によって、深手を負ってしまう(雲陽軍実記)。
毛利元就による総攻撃の際は、福山肥後守とともに御子守口を防衛。雲陽軍実記、陰徳太平記ともに杵築同行者に名前があり、富田城下迄相届衆にも名前があるので、自身は最後まで尼子義久に従っていた。
その後は山中鹿介や真木宗右衛門高純らとともに、順礼姿となって諸国を渡り歩いた後に京都に戻り、勝久を大将とした尼子再興の立役者の一人となった。
布部山の戦では山狭から300騎余の兵を率いて、三郎左衛門とともに中山口に陣した。
尼子家に絶対なる忠誠を抱き、毛利元就に一生対面しないと誓っていたにも関わらず、秋上綱平・庵介親子が大宝坊による斡旋で降伏すると、中井平三兵衛とともに八郎左衛門も毛利に降るという風聞が流れ、これを信じた勝久によって真山に呼び出され殺されてしまった。また、子である四郎次郎も同様に殺害されたとされる。