カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

尼子分限帳に関する個人的見解

https://camonambam.hatenablog.com/entry/2019/07/12/221940

 以前、尼子分限帳に関する岡崎英雄氏の見解をまとめたので、今度は自分の考察とか意見とかをまとめてみる。

 

 正直なところ、尼子分限帳の信憑性に関して私はまだまだ疑っている。以前も書いた川副久盛の扱いもそうだし、他にも不可解な点はある。

 その一つが、分限帳の中老衆、森脇東市正 播磨之内28785石の部分。

 森脇市正久仍は生年は不明だが、没年は1616年とわかっている。没年がわかっているなら、生年もある程度推測できる。70代80代での大往生を遂げたのならば、その生まれは逆算して1530年代〜1540年代であろう。

 もし岡崎英雄氏のいうように、尼子分限帳の初めの制作年代が1552年であるならば、久仍は当時、10代から20代となり、中老という役職を担うにはあまりにも若くはないだろうかという疑問が生じる。彼の場合も山中鹿介のように家督を継ぐ者が他にいなかったのだろうか。

 そうすると、この時点で森脇久仍が中老というのに違和感を覚える。だからこそ私は尼子分限帳は、武将個人としてではなく「家」表記なのではないかと考える。

 そうであれば、中井駿河守が四家老の一人であるにも関わらず、陰徳太平記で「さほど富饒ではない」と書かれていることにも納得できる。また、尼子家旧記で中老とある、中井久家の名が書かれていないことにも辻褄が合う。

 しかし、そうであると仮定すると、同じ家であるにも関わらず、別に記載されている人物が多数いることが問題として浮上する(本田や本城、秋宅家など)。そうすると、この仮説では説明しきれない部分が生じてしまう。

 ならば、次は記載された人物の立場に注目してみよう。山中鹿介は尼子再興の象徴である。また、同じく中老と尼子分限帳に書かれている立原源太兵衛も再興軍で重要な役割を担った人物である(本来そこに書かれるべきは兄の幸隆である)。そして、森脇久仍もどちらかというと再興戦において活躍した武将であるといえよう。

 つまりは、本来中老でない人物をそこへ書いたのは、わざとであり、毛利への対抗心や尼子家の意地、再興軍へのエールなどの感情が制作者にあったからだと考えることができる。

 そして、再興軍とはあまり関係のない人物は本来の役職・石高をそのまま書き、その中で義久ら3兄弟の立場が悪くなるような記述は避けたとすれば、大体の違和感は解消できるのではないだろうか。

 なので、尼子分限帳は本来の役職や石高を元にしつつも、かなり修正を加えたものではないかと考える。

 どちらにせよ、現時点での私個人の意見としては、尼子分限帳の信憑性は依然として低いままであり、資料として用いる場合は注意すべきであるとする立場である。しかし、この資料に関してはまだ研究すべき部分は多々あるので、これからも考察は続けていきたい。