「竹生島奉加帳」と「尼子家旧記」の中井家
資料の中の中井家シリーズ、今回は「竹生島奉加帳」と「尼子家旧記」に関して。
竹生島奉加帳は1540年当時の尼子家家臣団を知ることができる貴重な資料。
この中では中井家は
・中井助右衛門尉
・中井対馬守秀直
・中井四郎兵衛尉
の3人の名が載っている。
久家は1523年生まれなので、1540年では18歳。ここに名が無いのは仕方ない。
竹生島奉加帳では三人とも富田衆に含まれる。富田衆というのは簡単に言えば、尼子家の直臣のこと。
中井助右衛門こと綱家は、順でいうなら19番目、対馬守秀直は31、四郎兵衛こと家清は32番目に名前が書かれている。富田衆は総勢三十七人なので、綱家はほぼ真ん中。秀直と家清は後ろの方に位置する。
次第不同とあるので、恐らく順番にそこまでの意味があるとは思わないが、後半になるにつれて字の大きさが小さくなるのは、見てて微笑ましい。
秀直と家清の生年は不明であるが、岡崎英雄氏の見解では、1540年時点で秀直は90代になり、家清も60代〜70代ぐらいと非常に高齢であったと推測している。
かなりの長命である尼子経久をさらに上回る秀直には恐れ入るが、年齢を考えるとこれが最後の仕事であったのかもしれない。不謹慎ではあるが、経久と秀直でどちらがより長く生きるか対抗心を燃やしあっていても面白いなと感じた。
家清はこの時、四郎兵衛尉とあるが、1543年の松阿弥文書では備後守家清となっているので、1540年8月19日〜1543年2月10日までの間に叙任されたのだと考察できる。
家清に関しては情報が少なく、秀直、綱家、久家に比べると、その人物像には霞がかかっているが、叙任された事実から、晴久は彼を信頼していたのではないかと考えられる。
それでは、次に尼子家旧記の中での中井家について見てみよう。
この中で書かれているのは
・中井駿河入道
・中井平三兵衛
・中井四郎左衛門尉
・中井藤五郎
・中井次郎右衛門尉
以上5人。
そして、中井駿河入道は晴久様御守、平三兵衛は中老という役職で書かれている。四郎左衛門は綱家の子か、久家の子か定かではないが、藤五郎と次郎右衛門尉は四郎左衛門尉の子として書かれている。
久家以下の3人と、雲陽軍実記や陰徳太平記に書かれている、
・中井助右衛門(綱家ではない)
・中井与次郎
・中井善左衛門
・中井兵衛
との関連性は不明である。
しかし、私が現在所持している資料から見受けられる、中井という名字の人物はこれで全部である。
出来ることなら中井家の家系図を作りたいのだが、現状では久家以下の情報が不確かなままであり、完全なものは出来そうにない。しかし、引き続き資料の収集と研究を続けていき、いつか完全なものを作りたいものである。
尼子分限帳に関する個人的見解
https://camonambam.hatenablog.com/entry/2019/07/12/221940
以前、尼子分限帳に関する岡崎英雄氏の見解をまとめたので、今度は自分の考察とか意見とかをまとめてみる。
正直なところ、尼子分限帳の信憑性に関して私はまだまだ疑っている。以前も書いた川副久盛の扱いもそうだし、他にも不可解な点はある。
その一つが、分限帳の中老衆、森脇東市正 播磨之内28785石の部分。
森脇市正久仍は生年は不明だが、没年は1616年とわかっている。没年がわかっているなら、生年もある程度推測できる。70代80代での大往生を遂げたのならば、その生まれは逆算して1530年代〜1540年代であろう。
もし岡崎英雄氏のいうように、尼子分限帳の初めの制作年代が1552年であるならば、久仍は当時、10代から20代となり、中老という役職を担うにはあまりにも若くはないだろうかという疑問が生じる。彼の場合も山中鹿介のように家督を継ぐ者が他にいなかったのだろうか。
そうすると、この時点で森脇久仍が中老というのに違和感を覚える。だからこそ私は尼子分限帳は、武将個人としてではなく「家」表記なのではないかと考える。
そうであれば、中井駿河守が四家老の一人であるにも関わらず、陰徳太平記で「さほど富饒ではない」と書かれていることにも納得できる。また、尼子家旧記で中老とある、中井久家の名が書かれていないことにも辻褄が合う。
しかし、そうであると仮定すると、同じ家であるにも関わらず、別に記載されている人物が多数いることが問題として浮上する(本田や本城、秋宅家など)。そうすると、この仮説では説明しきれない部分が生じてしまう。
ならば、次は記載された人物の立場に注目してみよう。山中鹿介は尼子再興の象徴である。また、同じく中老と尼子分限帳に書かれている立原源太兵衛も再興軍で重要な役割を担った人物である(本来そこに書かれるべきは兄の幸隆である)。そして、森脇久仍もどちらかというと再興戦において活躍した武将であるといえよう。
つまりは、本来中老でない人物をそこへ書いたのは、わざとであり、毛利への対抗心や尼子家の意地、再興軍へのエールなどの感情が制作者にあったからだと考えることができる。
そして、再興軍とはあまり関係のない人物は本来の役職・石高をそのまま書き、その中で義久ら3兄弟の立場が悪くなるような記述は避けたとすれば、大体の違和感は解消できるのではないだろうか。
なので、尼子分限帳は本来の役職や石高を元にしつつも、かなり修正を加えたものではないかと考える。
どちらにせよ、現時点での私個人の意見としては、尼子分限帳の信憑性は依然として低いままであり、資料として用いる場合は注意すべきであるとする立場である。しかし、この資料に関してはまだ研究すべき部分は多々あるので、これからも考察は続けていきたい。
御堂山・砥神山(丹野城址、三月田古墳)
今日は久しぶりの晴れの休日だったので、蒲郡にある御堂山と砥神山に行ってきた。
ここはアクセスがよく、電車だけでいける。自家用車がない私には有難い。
さっそく駅から歩いて、三月田古墳へ。
ちょっと小高い丘に2号、3号と並んでいる。1号はもう存在しないみたいだけど、この二つはよい状態で残ったそうな。
古墳越しに山を見るという贅沢。最高だね。
さて、ここから御堂山に向かうんだけど、早速迷った。途中から道が無くなってどうしようもなくなったんだ…。迂闊に進んで遭難したくないし、戻る。
仕方がないので、さがらの森という看板に従って車道を歩く。どうやらこっちで正解だったみたい。
御堂山の山頂には丹野城址がある。そこまでの道はずっと階段。キツい…!
頂上が近くなってくると、道筋で石仏がお出迎え。疲れで折れてた心が癒されるね。
そして、ようやく頂上だー!!開けた景色は最高だね!疲れが吹っ飛ぶ。
頂上には丹野城址の石碑と説明板もあるよ。
ここから一旦下山。見逃した史跡(観音堂)を回収しに行くよ。
丹野城から観音堂までの道にも石仏はあるけど、かなり道が険しい。山道に慣れてない方は、さがらの森ルートで行かないと怪我するかも。
ゴールの観音堂には県指定文化財である「木造十一面観音立像」があるよ。観音堂の中を覗くと、葵の紋が見えたから徳川縁の地かもしれない。
次は相良山荘の方へ行って、全福寺跡を確認。丹野城のとばっちりで滅んでしまったお寺。礎石は確認できるそうな。
本当はこの近くに荒井古墳というものもあるらしいんだけど、確認できなかった…。調べ不足だったな…悔しい。
次は砥神山へ向かうよ。こっちの方が案内看板が充実していて、ハイキングにも向いてる。こちらを先に行くべきであったか…やっちまったぜ。
山頂到着!標高252メートルと低め。でも海と街並みが一望できて、景色はいいよ。
ここからの道はベンチも充実してるし、所々で展望が開けるので楽しみながら歩ける。
ちなみに、この砥神山には山頂が2ヶ所ある。さっきのところと行者が目印のここ。この「役行者」は修験道の開祖なんだって。意外なところに史跡って転がってるのね。
もう後は下山するのみ。ひたすら石段を下っていくよ。
途中にはカエルの石像があった。かわいい。
あと、こんなのも。近寄らないようにしたけど、ちょっと怖い。
これにて終了〜。ここから駅は案外近いので歩けるけど、もう足ガックガク。4時間ちょっと歩いたかな。道に迷ってなければ、4時間はかからないはず。下調べは大事だね。今後は気をつけよう。
「尼子氏分限帳」の信憑性について
尼子氏分限帳というと、長年、資料としてはいまいち信用できないものだとされているが、これに関して『尼子裏面史』で岡崎英雄氏が思わず「おっ」と思わせる解説をしてたので、軽くまとめてみる。
そもそも、この資料が怪しいとされている原因は、尼子研究における権威である米原正義先生が『風雲の月山城』もしくは『出雲尼子一族』内において、いくつか疑問点を挙げられているからである。
米原先生が尼子分限帳で問題として挙げていたのは以下の4点。
①成立年代(『島根県史』では1541年以前と記載されている)
②尼子下野守の名があること
③山中鹿介の存在
④貫文ではなく石高表記であること
これに対し、岡崎英雄氏はそのすべてに答えを出しているので、それを順にまとめていくと…
まず ①成立年代
簡潔に言うと、1541年以前ではなく、晴久の家臣団改変後(1552年頃)に一度作られた分限帳を、義久幽閉後(1566年以後)に立原備前守幸隆や本田豊前守家吉が再編したものであるとしている。
その根拠として、この文書が当時、梅雪覚書、伝書、富田下城共衆付とともに発見されたことから、毛利氏の義久幽閉監視役であった内藤梅雪の尼子家臣団監視用の参考文書として制作されたのではないかと考察している。
富田下城共衆付(尼子家旧記)には、尼子滅亡当時の家臣の名前と役職の他に"死亡註"がつけられていることからしても、これは毛利による監視対象の尼子家臣のブラックリストのようなものであり、恐らくそれと分限帳はセットで用いられていたのではないかと述べている。
ここに関連してくるのが、④の石高表記で、毛利家と対照しやすくするために石高表記にしたのではないかとしている。
②の尼子下野守(久幸)に関しては、本来1541年に戦死しているはずであるが、そもそも武士というのは「元」や「故」という表記を嫌うから、敢えて生きているかのように書いたというのが理由の一つ。
そして、久幸の遺領播磨の内十万石は、本来久幸の嫡子である孫四郎経貞に与えられるはずのものであったが、1541年時点で経貞が幼かったため国久に預けられており、成長後も経貞が愚昧な人物であったことから晴久も国久も返還しなかったというのをもう一つの理由としている。1552年に元々の分限帳が作られたのであれば、新宮党はまだ存在しており、国久も存命である。そうなれば、本来経貞に与えられるはずの土地を国久が所有しており、晴久も知らんぷりを貫いている状況は都合が悪くなってくる。ならばどうするか。久幸の名を借りれば何も問題にはならない。だからこそ、鹿介と久幸が同時に記録されるという事態が起こってしまったのである。
そして、③鹿介に関しては、山中家の事情と、分限帳が再制作された当時、再興運動が盛り上がりを見せていたことを挙げている。
山中鹿介は父を1546年に亡くしており、兄甚太郎も病弱であったとされる。1552年頃では、鹿介の生年を1540年としても1545年としても、未だ幼い身であるのは変わらず、元服していたとしても二万石を頂く中老というには、不十分であろう。しかし、そもそも山中家は経久時代からの忠臣であり、当主が病弱あるいは幼いからといって、その土地を没収してしまうのは、尼子家への信頼が揺らぐ行為であり、家臣に対して気を配っていた晴久らしくない。ならば、この表記をどう受け止めるか。1552年頃の初期の分限帳では、鹿介という"個人"としてではなく"山中家"として書かれていたとすれば良いのである。そして再編時は、立原幸隆と本田家吉による尼子家家臣としての見栄や意地というものが、「中老山中鹿介」と書かせたのではないかと考察している。自身らは尼子家再興に協力はできないが、分限帳にしっかりと名を残すことで、彼らへのエールとしたのだろう。
それに関連し、尼子分限帳には中老のところに立原源太兵衛(久綱)の名があるが、ここは本来幸隆が書かれるべき場所である。しかし、幸隆は編纂者の立場を利用し、弟へのエールを込めて、敢えて久綱の名を書いたのではないかと推測できる。
これは分限帳に本田豊前守の名が二つあることにも関連する。中老と侍大将に名があるが、本来正しいのは中老であり、侍大将には家吉の弟が元々書かれていたのではないかと考察している。家吉の子と弟は義久に随伴したはずであるが、尼子家旧記を見れば因州や雲州で亡くなったとされているので、見張りを殺害して逃げた可能性も指摘できる。あるいは再興軍に加わっていたかもしれない。どちらにせよ、分限帳に名を記すのは憚られたため、豊前守(家吉)の名を借りたと考えられる。
以上のことを考慮すると、尼子分限帳は資料としての信憑性を再考すべきであると岡崎氏は述べている。
しかし、私個人としては尼子分限帳にはまだ気になる部分もあり、完全に信頼できる資料かというと疑問がつきまとう。
岡崎氏は触れていなかったが、陰徳太平記や尼子家旧記には家老、老中と記されている川副美作守久盛が、分限帳においては「侍大将一万石」という扱いであるのはおかしくはないだろうか。その十倍はあって然るべきであろう。
また、陰徳太平記には13人いたとされる家老が4人になっていることも気にかかる。
加えて、尼子家旧記では中老と記されている中井平三兵衛久家がどこにも書かれていないのは、どういう訳であろうか。
久家に関しては再興軍に加わっていることが関係しているのやもしれないが、個人的にはまだ資料としては注意が必要なものであると指摘したい。
しかし、尼子分限帳が資料として、どのような役割を持っていたかが分かれば、家臣研究の更なる発展が期待できるので、引き続き研究が行われることを望む。
三ヶ根山と殉国七士の墓
今日は西三河の数少ない山である、三ヶ根山に行ってきたよ!ここは紫陽花が有名で、特に今はかなり見頃なんだ。
大半の人は山頂付近の駐車場に停めて、紫陽花ロードと殉国七士の墓を見るぐらいなんだけど、我々(私と友人)は登山口から登ってまいりました。
登山口に一応、看板はあるけど草が生い茂って凄くわかりにくい。あと道はだいぶ本格的に登山道なので、登山装備は絶対必要。一応、以下のルートで行きました。
登山口からはひたすら下のような山道が続く。途中、登山口と山頂を表す看板だけがある。1時間半ぐらいひたすら歩く。周りの景色もこの辺りでは楽しめない。
しばらく歩くと、ロープウェイ駅舎跡という石造りの建物が見える。ここでようやく景色もひらけてくる。駅舎跡は廃墟感あって、かっこいい。
そこから少し歩けば、途中の道にようやく紫陽花が…!心が浄化されるね。
だが、紫陽花ロードの名はここからが本番!見よ、この素晴らしい紫陽花を!
町興しに数年前から始めて、7万株ほどの紫陽花が植わっているのだと。今じゃこれ目当てに多くの人が訪れるようになったそうな。
ここでようやく人とすれ違うように。近くには「ゆうとぴあ」という休憩所があるよ。軽食も食べれるし、中には大東亜戦争関連の物が並んでる。殉国七士の墓目当ての人はここも寄るといいよ。留魂の碑が目印。かわいい猫ちゃんもいるよ。
ゆうとぴあでお話を聞いてたら、車で乗せていってもらえることに。本当にありがたい…。優しさが身にしみる…。
殉国七士は極東国際軍事裁判で絞首刑にされた東條英機以下6名のこと。まさかここにそれほど凄い場所があるなんて、思いもよらなかった…。ボランティアの方に案内してもらって、色々なお話も聞けた。紫陽花で有名にはなったけど、それ以外のシーズンは人が少ないみたいだね。もっとたくさんの人が来てくれるといいなぁ…。
ここからは下山に移るよ。山頂駐車場には大勢の人が訪れていて、ちょっとした賑わいを見せていたよ。
この時、通り雨に降られたから、天気は生憎だけど紫陽花と景色は綺麗。
ここから観音のある参道に向かう。慰霊碑がたくさんあるのと、行基が修行したという岩や観音様があるよ。
観音には本尊の三ヶ根観音と、ぼけ封じの白寿観音、フィリピンで散った日本兵を供養する比島観音があって、それぞれの御朱印ももらえる。
私のは比島観音のもの。絵は一枚一枚手書きなのだそう。
ここからはひたすら今まで通った道を下山していって終了。休憩含めて、計6時間ほど。歩きで行くなら時間に余裕を持って、車で行くにしても、6月7月の紫陽花のシーズンは混むらしいので注意が必要。
登山と紫陽花と大東亜戦争の3つが堪能できるので、何か一つでも興味あるなら是非。
『新雲陽軍実記』内の中井家
『尼子物語』はやったので、次は『雲陽軍実記』の中の中井家について。
まず、中井という苗字の人物を列挙していくと
・中井駿河守久包
・中井平蔵(平三兵衛)
・中井兵衛*
・中井助右衛門
・中井善左衛門
・中井與次郎
以上6名が登場。(平蔵と平三兵衛と2種類出てきたけど、これは同一と判断)
ほぼ『尼子物語』と一緒だけど、唯一中井兵衛という人物だけ違う。この人物が登場したのは、1553年の小笠原長雄の救援の時。晴久に同行した者の中に、綱家と久家と兵衛の3人が並んで書かれてる。
誰こいつ?また新たな人物出てきちゃったよ…。四郎左衛門とか次郎右衛門とは違うよな。誰だろ…。この人物については要研究かな。
あと、『尼子物語』との違いで一番理解できないのが、義久たちの杵築までの同行に中井與次郎はいるのに綱家と久家が消されていること。
そもそも人数が全然違う。『尼子物語』だと69人とされていたのに、『新雲陽軍実記』では85人になってる。それでいて綱家も久家も含まれてない!何それ!意味わからん!!
追記:後日確認したら、新雲陽軍実記には85人中78人しか書かれていないことが判明。その7人の中に助右衛門の名あり。
ちょっともう心が折れそう。雲陽軍実記と陰徳太平記の比較研究した人とかいないかな。その論文とかあるなら読みたい…。何を信用したらいいか、わからなくなってきたもん…。信憑性なら陰徳太平記のが上だと思ってたけど、私にはもう何がなんだかわからないよ…。
『尼子物語』内の中井家
『尼子物語』内で書かれた中井家関連のことで、気になることと考察とか。
まず、気になったのは中井久家こと中井平三兵衛の名前の表記。『尼子裏面史』や『尼子氏関連武将事典』では、平“三”兵衛と書かれていたのに対し、『尼子物語』ではそう書かれてたのは一度だけで、他は平“蔵”兵衛と表記されていた。ちなみに『新雲陽軍実記』では平蔵呼びが多い。
平蔵呼びされると、別人感が強いのであまり好きではないけど、慣れればまぁそんな表記もあるよねって感じだし、神経質になるところではないね。
それより重要なのは登場した中井という名前の人物。
・中井駿河守久包
・中井平蔵兵衛久家
・中井助右衛門
・中井与次郎
・中井善左衛門
上の二人はもう説明不要だと思うので、そこはスルーで。
一番気になるのは中井助右衛門。助右衛門というと、綱家が駿河守に叙任される以前の通称なんだよね。それを引き継いでいる人物というと、通常嫡男か嫡孫かが考えられる。でも、綱家の嫡男が久家なのは確定事項だから、あり得るとしたら嫡孫。
そもそも彼が出てくるのが、義久の杵築までついていった69人の一人としてと、再興に応じて忠山に馳せ参じた時の2回。両方久家とともに登場してるし、久家の子どもの可能性が高いかな。
でもね、尼子家旧家を見ると助右衛門という人物は出てこないんだ。代わりに出てくるのが、中井四郎左衛門尉とその子である中井藤五郎と次郎右衛門尉。
もう訳がわからん。そもそも与次郎と善左衛門の二人は、綱家・久家と血縁なのかどうかもわからん。与次郎は義久の杵築までに同行した69人の一人なんだけど、何故か綱家・久家・助右衛門とは離れて書かれてるんだよね。同じ家系なら普通はまとめて書くだろうに…。
善左衛門は横道兵庫介の姪婿で、毛利側に寝返って、横道兵庫介を討った人物として書かれているだけ。情報が少なすぎる。
なので、もうちょい調べる必要がありそう。雲陽軍実記もそうだし、翻訳ではなく『陰徳太平記』原本もね。マイナー武将・武家といえど、奥は深い。