カモ歴史日記

史跡巡りや戦国考察など

安芸高田市の史跡巡り

安芸高田市歴史民俗博物館主催のシンポジウムに参加するため、安芸高田市に行ってきました。

シンポジウムは午後からなので、午前中はフォロワーさんに安芸高田市内の史跡を紹介してもらいました。

最初に行ったのは正明寺。


今は小さなお堂があるだけだけど、この山にある古城の守護として、尼子義久が寺を再建したとのこと。この頃は捕虜から家臣になった頃だろうから、それでかな。

奥まで行ってないので詳細は不明ですが、説明の通りであれば、古城跡があるのかな?気になるけど、わかりませんでした。

お堂の中は金ピカの仏様がいらっしゃいました。軽く見回したけど、義久に関連する物は見つからなかった、残念…。
正徳時代の帳以外からは義久と関わりがあることはわからないし、もっと説明があれば良かったんだけどな…。

その次は尼子屋敷跡。
正明寺から少し行ったところにありました。


案内看板に従って進んでいくと、広いところに出ます。



石碑と説明看板があって、今いる場所は家来屋敷跡と判明。
上に行こうとすると、金網が張り巡らしてあって中には入れなさそうでした。もしかしたら入れるところがあるかもしれないけど、無理に入るのはどうかと思って諦めた。

ちなみに東屋があるけど、そこには何故か鹿の頭蓋骨が飾ってあった。頭に某七難八苦がチラついたけど、気のせいだよね…。

次は尼子三兄弟ゆかりの墓。

ここに書かれているように、たぶん随従した重臣の墓じゃないかなとは思う。
↓に誰の墓なのか推測した記事があるので、一応参考までに。
https://camonambam.hatenablog.com/entry/2019/11/03/171451

正明寺は案内看板が極端に少なかったけど、ここは墓に辿り着くまでに案内看板がたくさんあってわかりやすい。





中央にある石碑は新しくて立派だけど、周囲の宝篋印塔は寄せ集め感がすごい…。明らかに下足りないんだけど、どこに行ってしまったんだ…。


墓のすぐ下には屋敷跡があったそう。現代の庶民感覚だとめちゃくちゃ広いなぁとか思ってしまう。

次は湯原弥ニ郎の腹切岩。吉田郡山の戦いで尼子方で戦い抜いた勇将ですね。



黒々とした岩だけど、宗綱の無念とかが残ってたりするのかな。怖いからあんまり想像したくはないけど。
フォロワーさん曰く、この隣にはかつて尼子温泉という名所があったそうな。温泉があるだけでなく、日本庭園があって、バーベキューとかもできるような場所だったらしい。今も残ってたら良かったのになぁ…。場所的には毛利のお膝元だけど、尼子好きが集まりそう。

最後に寄ったのは池ノ内古戦場跡。



この池の近くで起こったから、そういう名称なんだとか。
とはいえ、石碑がちょこんと設置されているだけだから、なかなか気づくのも難しい。

これで時間が迫ってきたので、吉田郡山市歴史民俗博物館に行ってから、シンポジウムに行きました。シンポジウムは一応有料だったけど、入館料払えば実質無料でした。
堀切丹夫さんのドローン映像から始まり、吉田郡山城のお話と月山富田城の考古学的研究の成果を聞くことができる、大変充実した講演でした。

おまけの厳島
(尼子は関係ないけど、行ってきたので)

厳島合戦の地、要害山。






本当にちっちゃい砦でびっくりした。

ロープウェイに乗って弥山にも行ってきました。





山頂からの景色はやっぱり最高でした。

なかなか行けないところをたくさんまわれて楽しかった2日間でした!また来年も中国地方に行けたらいいなぁ。

尼子氏関連史跡巡り

久しぶりのブログ更新。
前日に尼子フェスへ行ってきたので、そこで合流したフォロワーさんに尼子氏関連の史跡に色々連れて行ってもらいました!

神西城麓にある十楽寺




神西元通の代に再興されたみたいですね。古記録はほとんど残ってないみたいだけど、神西家の合祀塔があったので、それはテンション上がりました。

ここから少し歩いたところに神西城への登り口があります。


神西城はかなり整備されていたので歩くのに苦労はいりませんでした。たぶん30分もあれば登れるかな?
頂上まで登ると視界がひらけてくるので、キレイな景色が堪能できました。




尼子十砦はいくつか行ってるけど、尼子十旗はここが初めてだったので、神西城が私の初尼子十旗ですね。
これからどんどん他の尼子十旗にも行って、いつか十旗も十砦も制覇してみたいです。まだ到底そんなレベルの高い山城へ行けるレベルではありませんが…。

神西城の次は、私の希望で多胡辰敬がいたとされる刺賀岩山城へ行ってきました。


フォロワーさんがかつて挑戦して登り口がわからなくて諦めた場所とのことで、最初どこから行けばいいかわからず二人で迷っていましたが、私のネットサーチ力で無理矢理突破口を見つけ出し、なんとか岩山城へ行くことができました。




鉄塔を目指して進んで、鉄塔から藪を乗り越えて登っていく感じになります。
道標がほとんどなく、藪もすごかったので、私1人なら絶対諦めるか途中で下りたかと思います。しかし、経験豊富なフォロワーさんの導きのお陰で無事頂上まで行けました。とはいえ説明碑とかないので、石垣や曲輪、柱の跡とかを見つけるぐらいでしか証拠はありませんが…。







途中ロープを手繰って登るところもありました。ちゃんとした格好でないと厳しい場所ではありますね。

岩山城の麓には円光寺という多胡家の菩提寺があります。



しっかり多胡家の家紋がありますね。



字は違いますが、多胡家累代の碑がありました。特に説明とかありませんが、ここに推しがいたかもしれないという妄想だけで幸せいっぱいになりますね。

岩山城後は時間もあまりなくなってしまったので、最後に邑南町にある尼子陣所跡へ行きました。


とはいえ、説明書きが昔はあったとされる展望台に車で行くだけとなってしまいましたが、進軍する尼子軍を想像するとどんな場所でも楽しくなりますね。

当初は忍原崩れがあった場所を目指していたのですが、タイムアップとなり諦めることになりました。実際ここもなかなか苦戦する場所みたいなので、ちゃんと時間を確保して装備をしっかり整えて臨みたいですね。

ここ最近尼子について調べることも史跡巡りに行くこともなかったけど、やっぱり自分は尼子と史跡巡りが好きだなぁと再実感する日となりました。
この日フォロワーさんには最初から最後までずっとお世話になってしまいました。きっとフォロワーさんがいなければ行けなかったところばかりなので、本当に感謝しております。私はネットで情報収集するぐらいしかお役に立てませんでしたが、また機会があれば是非一緒にまわりたいですね。
尼子フェスから始まり、2日間でとても貴重な体験ができました。次回の尼子フェス5年後ですが次も行けるといいなぁ。

中井家まとめ

 中井綱家や久家については個別にまとめを作ったけど、中井家全体はそういえば作ってないなと思ったので、まとめてみました。

中井対馬守秀直

 「竹生島奉加帳」に富田衆として記載あり。
 「清水寺文書」において「吉筑以憤中井対馬守ヘ本物返…」とあり、吉田筑後守が清水寺多気宝殿造立の資金を得るために、宇賀荘一円を中井対馬守に売却したことがわかる。
 天文二年二月五日の「日御碕文書」には犬田の地を日御碕神社に寄進したことが記されている。
 岡崎英雄氏は秀直を能義郡土一揆の指導者であると考えており、それ以前は海賊大将として李朝世相の宮廷に出入りしたと考察している。
 彼の名が記された最終文書は天文九年八月一九日の「竹生島奉加帳」であり、その後の消息は不明。

中井備後守家清

 「竹生島奉加帳」富田衆に書かれた四郎兵衛尉と同一人物か。家清の“家”が綱家、久家に偏名に譲られていることから、綱家の父親だと考えられる。
 天文十二年二月十日の「松阿弥文書」に、松尾左馬頭重長と同列に署名花押している。また、「松阿弥古記」によれば、「十神山城主松尾左馬頭繁長御家来 中井備後」と記されているので、松尾氏の家臣であったことが窺える。しかし、尼子家臣内に松尾氏というのは見られないので、松田氏が一時的に名乗っていた姓の可能性がある。
 天文十二年以降の消息は不明である。

中井平三兵衛久家

camonambam.hatenablog.com

中井四郎左衛門尉

 「尼子家旧記」に「雲州にて死」と記載あり。久家の弟か子かと思われる。

中井藤五郎

 「尼子家旧記」に記載。四郎左衛門の子。

中井次郎右衛門尉

 「尼子家旧記」に記載。

中井兵衛

 「雲陽軍実記」に登場。小笠原長雄の救援の際に、綱家・久家とともに従軍。

中井助右衛門

 「陰徳太平記」と「雲陽軍実記」に登場。1566年の杵築同行者の一人、また、1569年に再興に応じて忠山に馳せ参じる。中井平蔵兵衛とともに書かれていることから、その子かと思われる(中井四郎左衛門と同一人物か)。

中井与次郎

 「陰徳太平記」と「雲陽軍実記」に登場。杵築同行者の一人。また、上月城に立て籠った際にも、その名が見える。

中井善左衛門

 「陰徳太平記」と「雲陽軍実記」に登場。横道兵庫介の姪婿で、布部要害山の合戦(1570年)で痛手を負って休んでいた兵庫介を討ち取った。二月十四日の合戦の数日前(「陰徳太平記」では十日前)に毛利に寝返っていたとされる。

最近の心境

 最近よく思うんだけど、やっぱり私って“普通”じゃないんだなぁ。
 正直それは数年前からわかっていたことだし、改めて何か劇的な出来事とかがあったわけではないんだけど、色々な本を読んだり、ちょっとした経験を経て再認識した。
 とにかく私って知識を得ることが好きなんだよ。それこそ歴史、美術、文化、人類学、宗教学、哲学、文学、脳科学、心理学、その他なんでも。
 そして、自分が知らないことを知っている人や、自分なんかとは格が違うって思わせるほどの博識な人は無条件で好きになる。っていうか興奮する。世の中にはこんな天才的な人がいるのか、私なんか足元にも及ばねぇ、私は世の中のこと何にも知らないんだなって思えるのが楽しくて仕方ない。
 そして、そんな自分が嫌だし、天才に近づきたいし、世の中のことをもっと深く理解したいって思うから、もっともっと知識が欲しい、本が読みたいって貪欲になっていく。それに、知識が増えれば増えるほど知りたい分野の幅も広くなるんだよね。止まらないんだよ、知識欲って。
 大学の友達が結婚したり、周囲が婚活だの彼氏だので騒いでるのに、私は心理学面白ぇー!!楽しぃー!!なんだから、もう女としては終わってるね。
 でも、もうさ…“普通”じゃなくていいやって思うんだよ。無理して周りに合わせんのって息苦しいし、人生楽しくないもん。
 そもそも生まれついた瞬間からASDっていうものを背負ってるんだから、どれだけ頑張っても完璧に“普通”の人になることなんてできないんだよ。だったら最初から自分らしく生きたいように生きればいいだけなんだよね。
 ファッションにしろ恋愛にしろアイドルにしろ、“女の子”らしいものにはまったく興味が湧かないし、誰かといるより一人の方が気楽だし、雑談なんて大嫌いだし、そもそも好意的に思っている人以外には興味がない。化粧だってマナーだから嫌々やってるだけだし、女性らしい服はできれば着たくないし、むしろ私が着たいって思うのは男性向けの服の方が多い(身長的な問題であまり着ないが)。私には本とゲームと歴史があれば、他のことなんて大して気にならない。

 現代社会では“普通”から逸脱すればするほど攻撃の対象になりやすくなるから、とにかく目立たぬように周囲に合わせて自分を押し殺すしかない。
 そう思い続けていたからこそ、私は“普通”になれない自分が大嫌いだったし、とにかく目立つことが怖かった。自分をできるだけ見せぬように、誰かの目に留まらぬように、誰にも迷惑をかけないように、そう生きることでしか社会に自分の居場所はないと思ってた。
 でも、別にそんなことないよね。無理して他人に合わせて息苦しくなるぐらいなら、他人にどう思われようと好き勝手生きる方が有意義だよ。実際私が好き勝手生きてるのを「良い」って言ってくれる人もいるんだし、自分にとってどうでもいい人達の評価を気にし過ぎてもどうしようもないんだよな…。
 まぁ結論としては、“普通”じゃない自分を受け入れてしまえば、今まで感じていた生きづらさもちょっとは楽になるだろうし、もっと自分を大事にしていかなきゃなって思い始めたってことだね。この心境に到達するまでかなりかかったけど、ようやく自分を好きになれそうな気がしてきた。

資料の中に見られる富田衆

 2月12日は尼子晴久の誕生日ですね!
 とはいえ、晴久に関することで書けそうなネタが思いつかなかったので、今回はタイトル通り、尼子家家臣の富田衆に関してです。
 晴久の命日(12月24日)に公開した記事で、河本家が富田衆としては数少ない尼子家を見限った一族のように記述したのですが、後日検証してみると、その見限った一族の数が誤っておりまして(ブログ内の数字は既に訂正してあります)、改めてその検証結果を明かしておこうと言うのが、本記事の制作意図です。
 最初に何故誤った数字を書いてしまったのかというと、岡崎英雄氏の『続尼子裏面史』p148にて、「竹生島奉加帳富田衆三十八将中富田下城迠相届衆に記録されなかったのは河本、山佐、今津、雑賀の四家に過ぎない」と記載があったのを鵜呑みにしてしまったことが原因です。自分でちゃんと検証すれば防げた事態なので、大変反省しております。

 それでは本題。
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 検証結果はわかりやすくするため、表にまとめてみました。同一人物と想定される場合は色を赤・青に変更してあります。
 今回用いた資料は、左から竹生島奉加帳、尼子分限帳、尼子家旧記、陰徳太平記の杵築同行者部分、二宮佐渡覚書となっています。尼子家の家臣が列挙されている資料を信憑性度外視で集めた感じですね。
 この中で一番信用できるのはもちろん竹生島奉加帳なのですが、私は尼子家旧記と二宮佐渡覚書はその次に信用できる資料ではないかと考えています。何故かというと、それらは毛利側が尼子家の家臣を管理するために作ったものだと考えておりまして、だとすれば虚偽を書く理由がないんですよね。むしろ正確な方がいいはずで、そういう意味でも信頼性は高いんじゃないかと思います。
 尼子分限帳はいつ成立したかもわからなければ、書かれている武将の活躍時期も合わない、後の老中クラスの武家が書かれていない、本田豊前守に至っては二ヶ所別の役職で書かれているなど、無茶苦茶なんですよね。一応尼子家の家臣を知るためには向き合うべき資料なので、載せましたけど…。
 杵築同行者に関しては陰徳太平記から抜き出しましたが、これは雲陽軍実記から尼子三兄弟の御供を引いて、中井駿河守・平三兵衛親子を加えた結果です。要するに軍記物枠です。尼子家旧記とはほぼ同時期の家臣団を表しているはずなので、比較するに有用かと思います。

 富田衆は26家とあまり多くないので一気に載せられました。でも、恐らくですが福瀬は福頼の誤字ですかね。他の資料では一切出てこないですし、“瀬”と“頼”似てますもんね。一応書いておきましたが、25家と仮定して進めていきたいと思います。
 尼子分限帳は成立年代不明なので置いておくとして、竹生島奉加帳は1540年に成立してます。
 尼子家旧記は富田下城迠相届衆のことなので、1566年に富田城が開城した段階で城内に残っていた114名(資料によっては116名)を表しています。
 杵築同行者は義久達を安芸に護送するにあたって同行を申し出た家臣達なので、開城してすぐ後、つまり尼子家旧記とほぼ同時期の家臣を示すはずです。
 三兄弟の御供は杵築以降も義久達と共にいた家臣なので、同じく1566年には判明していたことでしょう。
 要するに尼子分限帳以外は1566年頃の家臣団を表しているはずなのです、理屈上は
 理屈上はというのを強調しましたが、上の表を見て貰えばわかるように、尼子家旧記と三兄弟御供はすべて名前が一致するのに対し、ほぼ同時期の家臣を示すはずの杵築同行者は半分も一致しません。半分以上の家臣が揃って改名でもしない限り、こうはならないはずです。名前はまぁいいとして、人数どころか家すら合わないのはおかしいですよね。富田城が開城した段階ではいなかった武家(古志・疋田)が、杵築までの同行は申し出るというようなことがあるでしょうか?逆ならまだわかるんですけどね、同行するのは義久達との別れを惜しむ同志のようなものですし…。一致するのが河副美作守、屋葺右兵衛、山中鹿介、横道兵庫助、横道源介、中井駿河守、中井平三兵衛+御供衆だけとは…。ちなみに中井駿河守、平三兵衛親子は雲陽軍実記には書かれていないので、雲陽軍実記に関しては一致する人数がさらに減りますね。やっぱり軍記物は信用なりませんなぁ…。

 話は逸れましたが、この表から判断できることはかなりあると思います。
 竹生島奉加帳以外に名がない家が福瀬を除くと4家あります。今津、雑賀、高来、山佐の4家は1566年以前に離反したか、消滅してしまったのでしょうか。尼子家関連の一次資料とか手当たり次第確認できればいいんですけどね。今の私には無理です。
 富田衆の中で尼子家旧記に名がないのは上記の4家を除くと、亀井、河本、古志の3家のみです。3家とも尼子分限帳には記載があります。軍記物内で大身だったけど離反した家という中に亀井も河本も書かれていましたね。古志は杵築同行者に名がありますが、離反したのが河本家よりも後だったから、雲陽軍実記の著者である河本隆政が把握していなかった可能性が考えられます。そうなると亀井家は重臣だったはずなのに随分と早くに尼子家を見限ったともとれますね。確認する術はありませんが。
 そうなると25家中7家が竹生島奉加帳にあって、尼子家旧記にない家ということになるわけですが、岡崎英雄氏の指摘する数とまったく違ってきちゃうんですよね。私は竹生島奉加帳にしろ、尼子家旧記にしろ、『島根県史七・八』を参考にまとめたのですが、誤字脱字がそんなにあったのでしょうか…。一応岡崎氏の指摘する4家はすべて一致しますけど…。岡崎氏と私でここまで差があるのは何故なのでしょう…わかりませんね。

 この時点で本来の目的であった検証は完了したのですが、ついでなのでもう少し。
 竹生島奉加帳と尼子家旧記にあって、尼子分限帳にはない家は全部で五家。松浦、目賀田、安井、屋葺、そして後の老中である高尾家もあるので、無茶苦茶ですね。それに湯原弥二郎は1540年に亡くなってるはずなので、鹿介とは生きた時代が違い過ぎる…。でも、書かれてる名前は割と有名どころな気もするし…。やっぱり「尼子分限帳」は謎の多い資料ですね。

 今回は富田衆のみで調べたので、出雲衆やどちらにも属さないその他でも検証してみたいです。今回使った資料以外にも使えそうなものがあったら、逐一調べていけたらと思います。

座頭角都とは何者か?

 久しぶりの更新です。晴久の命日だから何かしたいという思いで、発想は結構前からあったこちらを書き上げることにしました。晴久の命日とはあんま関係ない気もするけど、細かいことは気にしない。

 

 さて、座頭角都についてですが、この人物に関してわかっていることは、それほど多くありません。それというのも『雲陽軍実記』という資料にしか登場せず、新宮党を滅ぼした時と、第二次月山富田城戦以外にはほとんど記述もないからです。

 とりあえず、『雲陽軍実記』でどのように書かれているかを簡単に箇条書きにしてみます。

  • 尼子晴久の時代から仕え、昼夜晴久のそばにいて酒宴の相手をし、軍議・政道を怠らしめた。
  • 自分にとって都合の悪い人物は、様々な讒言をして領地を取り上げさせたり、切腹させていた。
  • 新宮党の面々に頗る冷酷に扱われていて、何かにつけて晴久に讒言していた。
  • 新宮党の長である国久は角都を「役に立たない盲人を抱えおき、一族老臣を足蹴にするとは言語道断である。第一兵糧のためにも益がない。いずれ討ち果たし、役に立たない遊び人は君側から追放しなくてはならない。」と評していた。
  • 国久の怒りを知った角都は晴久に成敗されるかもしれないのでお暇したいと言い、晴久は世が治まるのを待ってから戻ってくるよう伝えた。
  • 元就はそのことを知ると、角都の後をつけさせ接触をはかり、新宮党が毛利と密通しているという嘘の情報を教え、これを聞いた角都は一転出雲に戻り、晴久にそのことを伝えた。
  • その後、角都は本丸に移され以前にも勝る寵愛を受け、義久の代まで君を欺き続けた。
  • 第二次月山富田城戦においては、大塚與三右衛門とともに義久に讒言をし、数十人を殺害、もしくは離反させた。
  • 宇山飛騨守が切腹し、果てる日の朝未明に、大塚の使者として宇山を訪問し、隠し勢でもって義久を襲うよう伝えた。
  • 宇山の死を見届けた後、本田が角都の宅を訪れると、年賀の礼に廻り、酒に酔った姿で帰宅したばかりであった。本田はさっさと角都を討ち取るとその首を引っ提げて義久のもとに向かい、大塚もまた大西、熊谷の手によって討ち取られた。

 以上が角都という座頭について書かれた部分の概略になります。一応わかりやすく時系列順にしてみました。改めて見てもクズですねー。これはひどい

 

 では、ここから以上のことを踏まえた上で、角都について考察していきたいと思います。

 座頭なので、目の見えない芸人だったのでしょう。

 そして、いつからかは不明ですが、晴久の代になって仕え、1566年に殺害されるまで尼子家の元にいた。新宮党誅滅の関係者だったことからして、1554年以前にはすでにいて、晴久から寵愛されていたと考えられます。国久から逃れるため暇をもらった期間を除いても、少なくとも12年以上、それだけ長い間にわたって晴久と義久から寵愛され続けたわけですね。自分にとって都合の悪い人物には讒言して消したり、失脚させていたにも関わらず…。

 角都のことを考えれば考えるほど、何だこいつという思いでいっぱいになります。

 国久は角都のことを何の役にも立たない穀潰しと言っていますが、正しくその通りですよね。ど正論中のど正論。むしろ何故、国久以外の家臣たちは角都のことを長年黙認していたのでしょうか?

 大塚與三右衛門は義久の側近です。彼についても情報は多くありませんが、第二次月山富田城戦において多くの讒言をし、家中の混乱を招いた人物として角都と共に討たれます。晴久の時代はどうだったのか、富田城戦以外ではどうだったのか、その辺りは分かりません。ですが、讒言をし、主君を誑かす者が他の忠臣からどう思われるのか、そんなこと火を見るより明らかでしょう。結果として彼は、中老だった本田、大西双方の怒りを買い、討たれることになりました。

 では、何故、結果的に新宮党滅亡の補助をし、多くの家臣を失脚させ、主君の寵愛をほしいままにしていた角都は、12年以上も新宮党以外の誰からも恨みを買わずに過ごすことができたのでしょうか?

 運が良かったからでしょうか?晴久からの寵愛が厚かったからでしょうか?讒言を恐れたからでしょうか?

 そんなわけがないでしょう。そんな人物存在しなかったと考えるのが一番納得がいきます。

 陰徳太平記が彼のことを存在しないものとして扱ったことからしても、香川正矩も同様に思ったのでしょう。座頭角都の存在はあまりにも都合が良すぎる。

 どう都合がいいのか。晴久を愚将に仕立て上げるのに都合がいいのです。

 義久と大塚與三右衛門のエピソードの中に、角都の存在は必要ありません。大塚がすでにクズなので、義久を襲わせようとしていたという点で、大塚よりさらにクズがいたなぁとなるぐらいです。

 そもそも尼子家の重臣が次々降伏し、讒言によって追い詰められているような極限状態の中で、何の役にも立たない、保身ばかりを考えているような座頭がまだ家中にいることがすでに違和感ありまくりです。こんなやつよっぽどいい条件で庇護されてでもいない限り、とっとと尼子を見限って逃げていることでしょう。宇山が切腹騒ぎを起こしている時分、正月であるとはいえ、角都は酒を煽ってご機嫌の様子です。兵糧がなく、大身の家臣すら追い込まれているような状況下で随分余裕がありますね。当主の寵愛厚き方は格別な待遇で迎えられているのでしょうね。羨ましい限り。

 冗談はさておき、この描写からしても、座頭角都の存在は違和感だらけということはお分かりいただけたでしょうか。

 次、新宮党誅滅についてです。角都はこのためだけに存在しているようなものですので、中心人物になります。

 角都は国久及び新宮党からは冷酷に扱われていたとされ、その反撃にか晴久に讒言して対抗していたようです。でも、先程も記したように、国久が言っていることって正論なんですよね。新宮党って粗暴な振る舞いが多くて、中井久家ら家臣と対立していたぐらいなのですが、こと角都に関する部分だけは彼らの言い分の方が正しいんですよね…。他は身勝手な振る舞いや横暴エピソードばかりなのに…。

 そして、新宮党が毛利と内通しているという情報を持ち帰った角都のエピソード。これが挿入されているのが、大塚の話の後なので、時系列的に一気に戻るんですよね。時系列順に書いた方が自然なのに。

 そもそも雲陽軍実記って第一次月山富田城戦から一気に永禄年間まで飛ぶので、やたら空白の期間があるんです。かと思いきや、宇山の切腹ら辺は長々と細かい描写まで書いて、著者のさじ加減が露骨なんですよね。宇山飛騨守は尼子家の重臣ですから、細かく描写するのが当然だとでもいうのでしょうか。宇山・大西・本田の密会の場面なんて、当事者じゃないと絶対わからんでしょって思うぐらい丁寧な描写です。

 まぁ宇山飛騨守の切腹についてはまた別記事でまとめるとして、何故この部分だけ異常に詳しく描かれているのでしょうか。そして、何故そのすぐ後に新宮党について書いたのでしょうか。

 私が思うに、大塚と義久、角都と晴久、二者の関係を無理矢理リンクさせようとしたからではないでしょうか。要するに、義久のやらかしエピソードと似たようなことが晴久にもあったのだと言いたいがために、わざわざ座頭角都という人物を創り上げ、新宮党の誅滅に絡めて描いたのではないかということです。

 新宮党滅亡に関して、角都の存在を無視してもう一度構成してみると、晴久及び家臣団は新宮党の横暴な振る舞いに不信感を抱いており、密かに対立していたことが浮き彫りになります。毛利が新宮党と晴久&家臣団の対立関係を利用したのかどうかなんてものは、証拠もないし真偽の程はわかりませんので、ここでは考えないものとします。

 晴久にとって新宮党が目障りなことは想像に難くありません。家臣団との間に軋轢が生じていることからしても、迷惑千万です。晴久が八カ国の守護に任命され、その立場を盤石なものにしようと思えば、新宮党粛清という考えは自然に出てきてもおかしくないのです。

 じゃあ、逆に角都がいることで変わることは何なのか。晴久を愚かな人物として描ける、それぐらいしか思いつきません。

 気に入った者を過度に寵愛し、讒言を簡単に聞き入れ、言われるがままに処分を下す。叔父である国久の叱責も聞き入れず、敵の流した情報を鵜呑みにし、家中最大の武闘派集団を消してしまう。他人の足を引っ張るだけで何の役にも立たない存在を長年にわたって傍に置き続け、後々重臣らの離反に繋がる佞臣の手助けをすることになる。そして、結果的に尼子家滅亡を早めることになった…と。

 座頭角都が存在することで、晴久の印象をこれだけ悪くすることができます。

 雲陽軍実記には晴久を褒めるような描写はまったく存在しません。晴久の功績となるエピソードは徹底的に省き、反対にイメージダウンになるような話は捏造してでも描く。そんな姿勢が見受けられます。

 私には雲陽軍実記には晴久を愚将に仕立て上げたいかのような意図が透けて見えるのです。

 家臣である河本隆政がどうして主君である晴久を愚将にしたかったのか。

 単純に晴久を憎んでいたから、という可能性も否定できませんが、私は河本家の自己正当化のために行ったのだと考えています。

 河本家は竹生島奉加帳では富田衆に含まれています。国人で多くが構成されている出雲衆に対し、富田衆は直臣です。1566年富田城開城の段階で残っている家臣の多くが富田衆です。26家のうち17家が富田城内に残っているということからしても、彼らの忠誠心の高さが窺えます。

 そんな中、裏切った数少ない家のうちの一つが河本家です。もうお分かりでしょうか?

 「自己正当化」というのは、直臣でありながら尼子家を見限り、早々と投降した河本家が、自分達は間違っていないというのを印象づけようと、晴久・義久の両当主を愚将に仕立て上げるために、雲陽軍実記を描いたのではないかということです。

 義久に関してはあまり擁護できないと考えているので置いておくとして、一次資料から想像できる晴久像は決して愚かな人物ではありません。むしろ尼子の最盛期を築き上げた人物と表現してもおかしくないような印象です。もちろん私の贔屓目が入っていないとは言いませんが…。

 主君を悪く書く時点でおかしいはおかしいのですよ。普通、身内贔屓になるものですから。しかも、直属の上司。わざと悪くいうのは理由がないとおかしいです。

 晴久が愚将であれば、こんな愚かな主君だったら裏切っても仕方ないよね、俺たち悪くないよね、に持っていくことができます。雲陽軍実記の狙いはそれだったのではないかと思うのです。だって、他にわざわざ書く理由がないですもん、雲陽軍実記。間違いだらけだし。

 自分達を正当化するために、主君を愚将に仕立て上げるなんて外道極まりないことですが、尼子家は滅亡して、資料も散逸状態、死人に口無しとなれば、自分達の都合のいいように改変ぐらい十分あり得ることですよね。河本隆政が最低ということに変わりありませんけど、家名を守るためにそれぐらいやる人間はいてもおかしくないと思います。

 この結論に関しましては、もう少し情報を集めた上でちゃんとまとめたいので、今回はここでひとまず終了とします。とりあえず言いたいのは座頭角都なんて存在しねーよというそれだけです。おしまい。

近況報告

 Twitter、ブログ共に完全に停止して随分と経ちますが、一応生きてはいます。生きてはいるのですが、もう3ヶ月以上碌に歴史に触れることなく日々を過ごしております。
 理由は一言で言うと、現在鬱状態に陥っているからです。とはいえ、最近はある程度落ち着いてきているので、そんなに心身ともにキツいとかはなくなってきたのですが、それでも歴史に対するやる気というものは完全に失せたままです。というか、歴史に限らずほとんどのことに対して無気力で、やる気がわかない状態ですね。最近は漫画読むか、動画見るか、ドラクエやるかという三択以外、何もする気が起きません。
 現在、仕事も休職させていただいているのですが、最初は自分が休むことに対する罪悪感とか色々あって、少しでも鬱に効果がありそうな写経とかジグソーパズルとかをやっていましたが、もうその気も失せてただただやりたいと思えることをひたすらにやる日々です。そのやりたいことの中に歴史が選択肢としてまったく入らなくなりました。毎日、漫画読んで、ドラクエやって、たまにバラエティ番組見たり、YouTube見てるだけです。休み期間も長くなるとダレますね。もう朝からドラクエやることに対する罪悪感は消えました。
 
 鬱の原因は、自分に合ってないと感じた仕事を無理に続けたことによる心身疲労からきているものだと思います。特に食欲不振、不整脈、吐き気、倦怠感あたりは今もうっすら残ってます。発症当時はずっと横になっていないといけないぐらいだったので、一応回復には向かっているのですが、鬱って治るの遅いんですねー。嫌なことがあるとすぐ重くなりますし。死にたいとはまったく思っていないのが唯一良かった点ですね。仕事してるときは「交通事故に遭えば仕事休めるのにな」は、何度か本気で考えましたけどね。実行には移してないです、流石に。加害者がいたら相手に申し訳ないし、痛いのは嫌ですもん。
 なので、精神的には自分はそこまで参っている自覚はないのですが、体調面ではまだまだ不調気味です。まぁこの精神的な部分も自己判断ですし、歴史に対するやる気、興味が失せまくっている時点でだいぶおかしい状態ではあるんですけどね。今までの私なら、これだけの休み期間があって史跡巡りも資料あさりもしないなんて考えられませんもん。7月には綱家の誕生日が、8月には久家の命日があって、ほぼスルーとかだいぶ私参ってる。
 でもね、一言言いたいのは歴史への愛が消えたわけではまったくないのですよ。尼子を思う気持ちも残ってるし、講演のお知らせメールが来るとちゃんとテンション上がるぐらいには喜びますし。ただただ無気力故に、能動的に歴史に触れにいかなくなっただけです。
 歴史って心身ともに負担が割とある趣味なんですよね。史跡巡りとか最たるもので、もう極力動きたくないとか思ってる私にはハードルが高いっす。本読むのも頭使うし、集中力いるし、そこからさらに情報まとめたり、考えたりすると、かなり負担になります。タイムラインに流れてくる人の悪意とかを見てしまうと精神を侵されがちな私には、Twitterすら開けない。もう下手すりゃフォロワーさんには死んだと思われてるかもしれない。それぐらい、しばらく歴史と距離を置いていました。

 歴史とはかなり離れた生活を送っていましたが、漫画、ゲーム、動画というオタクの三種の神器があるので、私個人としては満ち足りてます。触れた作品に心をやられることはありましたけど、受動的にやることのできるこれらは、まったく負担には感じないので、ずっとそれをやり続けるのは余裕でできます。
 ひどい時は起きてる間ずっとドラクエをやり続けるということも平気でしてます。睡眠時間が削られると次の日の体調に響きますけど、ドラクエがどれだけ鬱展開を見せてこようとそれは負担じゃないです。ぶっちゃけドラクエシリーズで一番好きなの、Ⅶの私には鬱展開が嫌なわけがないんですよね。Ⅶは初っ端のウッドパルナから精神を抉ってくるぐらいアレなので…。途中鬱でも最終的にハッピーエンドならそれでいいんです。レブレサックみたいな胸糞があっても、一筋の希望は残してくれるから、その点心配しなくていいんですよね。人間の醜さを描く一方で、美しい生き様の人も用意してくれるからね、ドラクエは。12はやばそうな感じするけど、まぁその頃には鬱も治っているだろうから大丈夫でしょう。プレイしないなんていう選択肢はありません。

 話、めちゃくちゃ逸れましたね。まぁ要するに鬱状態だから歴史とは距離置いてるけど、ちゃんと元気にドラクエやってるぐらいには余裕もありますよって話です。死んだと思われるのは流石に嫌なので、生きてはいるよって報告ですね。以上、近況報告でした〜。


※以下、ひたすらドラクエの感想とかだけの駄文です
 ちなみに、ここ1ヶ月ぐらいは11Sとビルダーズ2にハマっていました。
 11S自体は発売日に購入してたんですが、追加要素のストーリーまでやって、その後の最後の砦辺りで止まってたんですよ。それで最近まで放置して、まぁ時間あるしまた一から始めるかと思ってやったら、出会ってしまったんですね、運命の相手に。 11は3DSで全クリしてたんですけど(エマとは結婚してないけど、クルッチは仲間にしました)、ボイスと美麗映像の破壊力をなめていました。スイッチ版にはボイスがつくって宣伝されている時は「ふーん」ぐらいのものだったんですけど、やっぱりキャラの魅力が何倍にも増しますね。3DSプレイ時はほとんど気にしていなかったキャラに今はベタ惚れしてます。まさかドラクエに自分の性癖ドストライクなキャラがいるとは思ってませんでした。そのキャラの声を聞いた瞬間に震えましたね。そして、顔出てきた瞬間に完全に恋に落ちました。何このイケメン…?このキャラを構成する要素すべてがぶっ刺さるんですけど!?となって、今は彼と結婚できたらよかったのにと、日々思いながら生きています。設定資料集で開発初期の段階では仲間になる可能性があったとか書かれてて、どうして実装しなかったんだ!!!と怒りに震えております。正直、完全に仲間に加入しなくても、ナカマたちとかジエーゴさんみたいに呼んだら一緒に戦ってくれるとかでよかったのに!戦闘の度に呼ぶのに!もしくは移動手段の一つとして呼べる制度とかあればよかったのに!Ⅷのキラーパンサー的な感じで火竜呼ばせてくれよ。CV斎賀みつきの主人公が背に乗ったら、擬似カムイとホロできるやん。ホロが報われるじゃない…!いや、呪いが残ってるような描写はない方がいいのかもしれんけど。正直乗れるモンスター増やすより、そっち実装してほしかった…。なんのための狼竜のよろいなんだよー…。
 と、まぁそんな感じで、もう彼が好きすぎて、常に彼のことばっかり考えてます。

 ビルダーズ2の方は前作プレイしてない状態で手を出しました。主人公の相棒がシドーという名前の時点で、どうせこいつもDS版Ⅳのピサロみたいな、プライド高くてイケすかないやつなんだろとか思っていました。まったく違いました。恐ろしいほどの正論でおっさんを嗜めたり、ワンコと戯れて遊んだり、お風呂大好きだったり、主人公を誰よりも大切にしてくれる、可愛くて最高の相棒でした。ひたすらにシドーくん好き!という感情だけでストーリー進めてたので、ムーンブルクは心が死にました。リックとハーゴンだけは許さねぇ。でも、最後の展開はほんと熱かったです。超スーパーカーの操縦難しすぎて、ラスボス戦2回死んだけど、序曲が流れてくるのはめっちゃいい!ただ、ハーゴンをプレイヤー自身がボコれなかったのが心残りですね。シドーくんが殴ってくれたけど、やつだけはプレイヤー自身が一発殴らせてほしかった。シドー戦での高笑いがもうムカついてムカついて…!
 もちろんビルドの方も楽しんでます。センスがないのでこれじゃないって建物ばかりになるのが辛いっす。屋根むずい。

 そんな感じで最近は黒髪長髪イケメンを愛でてばかりいますね。すげえ楽しい。一度惚れたらしつこい女なので、もうしばらくハマり続けると思います。次のやつに手を出したい気持ちもあるけど、今はこの二つを全力でやっていく所存です。11Sの周回プレイには「すべての敵が強い」縛り、めっちゃいいです。11はレベル上げも戦闘もぬるいなと思ってたので、しょっちゅう死ぬのが刺激になって楽しい!周回プレイはまだ1回しかやれてないので、まだまだやりますぞー!